前回に引き続き、ゲイリー・バートンの自伝について。
ゲイリー・バートンは重度のエリントンLover。
知らずにこの本を選んだのだが、その愛の強さに驚いた。今回はその強い愛についてみる引用箇所が多いため、テキスト量がおそろしく多くなってしまったが、翻訳が素晴らしいため、読むことにストレスは感じないはずだ。そして、どれも興味深い内容である。
僕は長い年月をかけて、サラ・ヴォーンをはじめとする伝説的ミュージシャンと数多く出会っているが、デューク・エリントンほど僕に強い影響を与えた人物はいない。
最初の出会いは僕がスタン・ゲッツと活動していた一九六五年、ピッツバーグ・ジャズフェスティバルの楽屋でのことである。いつものとおり、スタンはヴィブラフォンのソロ楽曲をフィーチャーしてくれたのだが、演奏を終えてステージから下りると、デュークが楽屋で僕を待っていた。彼は僕を脇へ引き寄せ、僕の曲が心に残ったと言うではないか。新たな奏法を発見したミュージシャンを見るのが好きらしい。60年代後半になると、コンサートやツアーでエリントン・バンドと頻繁に活動するようになるが、デュークは僕の顔を見るたび、僕のしていることに興味を示したうえ、わざわざ励ましの言葉を贈ってくれるのだった。
デューク以上に重要なジャズミュージシャンはいないと考える人間は数多い。彼は75年にわたる生涯のほとんどを、ジャズの世界を新たな領域へと押し広げることに費やし、後世に残した多数の楽曲、不朽の名作となった数々のレコーディング、そして革命的とも言える編曲技法を通じ、その影響力を不滅のものとした。僕が彼と知り合えたこと、そしてバンドリーダとしてのキャリアを積むにあたり彼に応援されたことは幸運としか言いようがない。
デュークの権利関係を管理していた妹ルースが僕に語ったところによると、兄はジャズの世紀が生んだ賜物だという。彼の成長はまさにそれと軌を一にしている。新世紀の始まり(1899年)に生まれたデュークは1920年代に20歳となり、1930年代に30歳となった。そして少なくとも60年代に至るまで、自身による果てしない技術革新のおかげでジャズの最前線にとどまることができた。さらに彼は生涯を通じ、アメリカ社会の動向と文化を巧みに取り入れたのである。(210-211頁)
これくらいならふつうに「尊敬してます」程度なのだが、こんなのは氷山の一角。
バートンのエリントンへの愛は、高校までさかのぼる。
三年生のとき、プリンストン高校にデューク・エリントン・バンドがやって来た。彼らがインディアナ南部の片田舎で演奏したなんて、いまだに信じられない(一九五〇年代のプリンストンの世帯数は千七百二十六)。僕にとっては一大事、有名なジャズバンドの生演奏を聴くのはこれが初めてである。さらにスクールバンドの一員(フットボール部の遠征旅行について行けるという理由でスネアドラムを担当した)だったおかげで、ステージ裏での世話を手伝う幸運に恵まれた。バスから降りるバンドメンバーの第一印象は、普通の人とはまったく違う、というものだった。全員スーツに身を包み、ジャズミュージシャンはこうあるべきと僕が考えていたのとまったく同じ、クールそのものの外見をしている。デュークは付き人を同行させ、様々なスーツやスポーツコート、シャツ、そしていくつもの靴がつまった衣装棚を運ばせていた。この時期にエリントン・バンドを目にした人なら憶えているだろうが、デュークはコンサート中に何度もステージを離れ、そのたびに衣装を変えていた。しかも、着替えるごとにますます奇抜なものになってゆく。デュークはその日もロッカールームに颯爽と入り、あまたある衣装のなかからジャケットやシャツを選び出したかと思うと、色鮮やかなアンサンブルを即興で創りあげた。それを目にできた僕は幸せである。また自分の目の前で動き、バンドの演奏に耳を傾ける姿は、僕に大きな影響を与えた。そして信じられないほど素晴らしい音楽――見事なまでのステージ構成、ため息の出るソロ演奏、バンド全体のスウィング感。その夜を境にジャズ人生への思いは一気に強くなり、その後何週間もそれを口にするほどだった。 (32-33頁)
ステージ中に何度も着替えるエリントン。
これ、インディアナの高校でのライブでの話ですよ。このエピソード自体もおもしろいが、その奇抜なファッションに満足して終わらず、生のエリントン・サウンドの衝撃に触れたことは大きい。
多くのミュージシャンが、若い頃に自分の街を訪れたエリントンに一生モノの感銘を受けている。サン・ラだってそうだ。地方の巡業公演には、田舎でくすぶっている若者に火をつける効果がある。これを生涯続けたエリントンは、ジャズの裾野を広げた/後進を刺激した、という意味でも地道な活動を続けていたといえるだろう。
(コラム〉デュークと僕
20世紀に入るころのワシントンDCで生まれ育った黒人青年のなかで、エドワード・ケネディ・エリントンはかなり恵まれた部類に入る――当時のワシントンDCは事実上、差別がはびこる南部の都市と言ってよかった。父親は製図工として海軍に所属しつつ、とある有名な白人物理学者の執事を務めていた。また両親のいずれもピアノの心得があったので、若きエドワードは初期に活躍した多くのジャズミュージシャンと違い、優れた音楽教育を受けられたのである。
エリントンは1923年(当時24歳)から1974年にこの世を去るまで自身のバンドを率い続けた。かくも早くからリーダーとして活動できたのは教育の賜物だったはずだ。楽譜の読み書きができたから、サイドマンとして経験を積むという普通のルートをスキップしても問題ない。作曲やアレンジも若いころからお手の物だったうえ、自分の曲をどう演奏するか他のミュージシャンに教えることもできた。さらに、彼の個性はリーダーにふさわしいものである。友人から「デューク」という愛称を奉られたのも、若いころから派手な衣装を好んでいたからだ。
デュークの発想はどこから生まれたものなのか、僕はいまでもよくわからない。先達のような存在はなく、モダンジャズを一人で発明したと言っていい。この音楽がどのような音であるべきか、あたかもそれを「耳にした」かのようで、あの独特なビッグバンド構成がジャズというものを事実上定義づけたのだ。30年代にビッグバンドを組む以前、デュークはまず中サイズのバンドから始め、その音楽は当時の需要を反映していた。つまり、最初はダンス音楽を主に作曲し、バス、列車、あるいはツアー先のホテルでそれを書き上げたのである。しかし商業性が必要とされる状況のなかでも、デュークは独創性の追求にこだわった。
1930年代を迎えた時点で、デューク率いるバンドはかの有名なハーレムのコットン・クラブに移っており、おかげで知名度が一層高まった。そのころすでに、エリントン・オーケストラはいまやお馴染みとなった18入編成にまで拡大し、伝説を生み出すのに貢献したプレイヤーとの生涯にわたる交友も始まっていた。デュークのバンドには特筆すべき特徴がいくつかあるが、その一つがミュージシャンとリーダーとの長きにわたる信頼関係である。バンドメンバーはデュークのことを陰で「腫れ目野郎」と呼んでいたけれど、いずれも数十年にわたってバンドにとどまった――デュークが一人一人の独自性を尊重したのが理由の一つだろう。大半のバンドリーダーは金管楽器あるいはリード楽器セクションの一体性を追及するが、デュークはミュージシャンのあいだに一体性の「欠如」を求めた。サックスセクションを耳にすると、単に五本のサックスでなく、各プレイヤーそれぞれの音色が聴こえるという具合だ。
同世代の人間の多くがそうだったように、僕もエリントンの音楽をレコードで聴いただけでなく、個人的な体験として知っている。彼のバンドは50年間ほぼ休まずに活動した――ここで言う「休まずに」とは、「毎晩欠かさず」の意味である。60年代にエージェントとして重用されたジョージ・ウェインが僕に語ったところによると、デュークは晩年になっても、週に7回演奏することを望んでいたという。メンバーに一晩でも休みを与えれば、必ずトラブルに巻き込まれる、と。みんな70代の老人なのにだ。ある夏ヨーロッパを訪れたときのこと、ジョージは予定の入っていない一日をどうすべきか悩んでいた。何かが決まるかもしれないと知らせを待ったが、結局デュークのホテルに出向いてこう言った。
「やあ、デューク。ニュースがあるぞ。僕らはいまニースにいるわけだが、明日は休みにしておいた。一日リラックスして楽しんでほしい」するとデュークはしばらく考え、こう答えた。「次のギグはハンブルグだったな、ジョージ。さっさとそこに行こう。仕事探しに苦労していると思われたくないんでね」
ノンストップに近いスケジュールを知って僕も驚いた。コンサートのチケットがすぐに完売すると、プロモーターは深夜に追加のショーを入れようとするものだ。僕も一週間ほど毎晩立て続けにコンサートをしたあとようやく、今夜は深夜に演奏しなくてもいいと、ツアーマネージャーに言われたことがある。そんなときデュークはどうするか? メンバーに集合をかけ、朝の五時まで新曲のリハーサルを行なうのだ。まったく信じられない。デュークの死から数力月以内に、古くからのメンバー数人がこの世を去ったというのは極めて暗示的だ。いずれのメンバーもバンドの勢いこそが生きる糧であり、それがなくなった瞬間にこの世から姿を消したかのようである。
1970年代、デュークと僕はともにRCAからレコードをリリースしていたので、何かの機会で一緒になることがよくあった。そんなとき、デュークはしばしば妹ルースを連れていた。彼女は愛想のいい美しい女性で、同じ家に住む兄を心から慕っていた。1968年度のグラミー賞授与式で、僕はデュークに「ライフタイム・アチーブメント・アワード」を手渡すよう頼まれた。彼はいつものように、完璧ながら独特な服装をしている。すると他のみんなが気づくより早く、彼は白でなく黒のタキシードを身にまとい、とてもクールなサンダース軍曹風の蝶ネクタイを締めたのだ。そしてこれも普段と同じく、デュークは注目の中心にあって、周りの全員を楽しませていた。プレゼンター役の僕は少しナーバスになったけれど、本番はなんとかうまく行き、最後にこう締めくくった。「……偉大なるデューク・エリントン!」観客が立ち上がって拍手を送り、スポットライトの光が彼を捉えようと室内を回りだす――しかしデュークはそこにいない。なんとトイレに行っていたのだ。数分後に戻った彼は、二度目のスタンディングオベーションを受け取った。
その後もずっと、ツアーでデュークと顔を合わせる機会があったけれど、彼はいつも思いやりのある言葉をかけてくれた。相手が誰であっても、風変わりなお世辞を言うことで有名だったのである。何かのイベントで僕を目にするたび、彼はこちらへ近づきこう言葉をかける。「礼儀だからね。君にも声をかけなくちゃ」打ち上げの席で、デュークはピアノの演奏を求められることがよくある。そうした夜会でのこと、中年の女性が彼に顔を寄せて「十二番街のラグ」をリクエストした。1914年に作曲された陳腐な曲だ。周囲の何名かが息を呑む。目の前にいるのは、およそニ干もの曲を書き、その多くをスタンダードナンバーにした人物なのだ。しかしデュークは満面に笑みを浮かべて「十二番街のラグ」を弾き始めた。なんて優しい男だろう。
デュークは僕にとって偶像である。だからこそ、ある年のベルリン・ジャズフェスティバルで観客がした行為に僕は怒りを覚えた。まず第一に、一部の観客がバンドなどそっちのけで新聞を読んでいる。それから数曲後、ブーイングが上がりだした。ベルリンではこんなことがあると聞いてはいたけれど、実際耳にするのは初めてだ――しかもそれが、誰あろうデューク・エリントンに向けられているなんて――忘れることも許すこともできなかった。この出来事のあと、僕はベルリンで何度か演奏しているものの、一度たりともベルリン行きを楽しみにしたことはない。あの夜の出来事が記憶から消せないのだ。
たった一度でもデュークと演奏していれば、素晴らしい記憶として残っていただろう。しかしその機会はついに来なかった。僕の知る限り、彼がヴァイブ奏者と演奏したことはないはずだ。だけど、一度だけレコーディングセッションに招かれたことがある。ある夜のこと、翌週新作のレコーディングをするからスタジオに寄ってみたらどうかとデュークに言われた。録音ブースでエンジニアの横に立つ自分の姿が目に浮かぶ。他に招待されたのは恐らく数名だけ。これ以上の栄誉は望めそうにない。
地下鉄を降り、RCAのスタジオがある23番街の角を曲がると、僕の興奮はさらに高まった。時刻は夜の十時、普段ならこのあたりの人通りは少ない。しかし建物の前には五、六台のリムジンが列をなして駐まっている。なかに入るとスタジオAにバンドメンバーが集合していた――さらに、タキシードやガウン、あるいは毛皮のコートに身を包んだ百名ほどの人間がひしめき合っているではないか! ハーレムの大規模なダンスホールがここに移転したかのようだ。エンジニアブースはすでに人で一杯で、スタジオにまで人がはみ出している。その人たちは折りたたみ椅子に座ってバンドと向かい合い、即席の観衆となっていた。その場に白人は僕だけだった。
僕は椅子の背を掴み、畏れを感じながらその様子を見た。あるテイクでは、偉大なるアルト奏者ジョニー・ホッジスが休憩から戻らないまま演奏が行なわれた。また音が正しくないとデュークが演奏を止めることもあった。誰かが前の曲を演奏していたのだ。指摘された人物はこう言った。「いや、曲が変わったなんて聞いてないぞ」すっかり飽き飽きしたメンバーにとって、これも毎度お馴染みのギグに過ぎないのだ。
こうした混乱のなか、デュークが音楽に集中できるのが不思議でならなかった。しかし数ヵ月後にリリースされた「ザ・ファー・イースト・スイート(邦題・極東組曲)」――最高傑作の一つと考える人は数多い――は、発売されるや嵐のような賞賛を受けた。いまこのアルバムに耳を傾けても、レコーディングに立ち会えたことが信じられない。たぶんトリビュートの意味もあって、僕はそのなかの三曲をのちにレコーディングしている。
エリントンは革新的なビジネス手法でも名高い存在だった。僕のバークリー時代の旧友であるハーブ・ポメロイによると、IRA(個人退職積立勘定)あるいは401k(確定拠出型個人年金)なるものが生まれるはるか以前から、デュークはサイドマンのために一種の退職プログラムを編み出していたという。また、50年代にデュークがコロンビア・レコードと行なった交渉の話も面白い。当時の企業幹部にとってペイズリーのネクタイなどもっての外だったので、派手な身なりを好むデュークはペイズリー柄のスーツを着て契約調印の場に臨んだのである。
ジャズの作曲法でエリントンが成し遂げた革新は、今日のミュージシャンと作曲家に影響を与えている。しかし僕が彼を尊敬するのには、もう一つ個人的な理由があった。
デュークはゲイでないにしても、当時としては稀なほど同性愛に寛容だった。またゲイを公言していたピリー・ストレイホーンとは、作曲上の共同作業者として終生強い関係を維持し続けた。ストレイホーンはハーレムのみならずゲイ社会にも強い影響力を持ち、長期にわたる交際を二度も堂々と行なった(当時としてはこれも珍しいことだった)人物である。二人の関係はごく親密ながら謎めいた部分も多かった。他のミュージシャンと違って決まった額の報酬を受け取るのでなく、必要な額をデュークに請求していたのがその一例だ。
そして最後に、いつも多くの人間と付き合いながら、ジャズやロックの分野で活動する若いミュージシャンとなぜああまで親交を結ぼうとしたのか、僕は不思議でならない。何しろ、大切なレコーディングセッションに僕を招待するくらいなのだ。たぶん僕自身が気づいていない方向性を僕のなかに見出したのだろう。音楽界のみならず社会全体に生じた変化を見ることなく、彼がこの世を去ったのが残念でならない。
僕はすれ違い程度でもデュークと知り合えたことを誇りに思っているし、彼の音楽は僕にいつまでも影響を与え続けるはずだ。僕はジャズの生誕に立ち会ってはいないけれど、(デュークをはじめ)何人かのパイオニアに会えただけでも十分ラッキーだ。この音楽を発明した人々とつながるとともに、自分たちの出番になったとき、当然たどるべき変化に加わることができたのだから。まったくタイミングのよい人生と言わざるを得ない。 (211-217頁)
エリントンへの強い愛が語られている部分。
共演する機会がなかったからこそ、エリントンへの敬意が持続したのかもしれない。バートンにとっては、エリントンは父というよりも祖父のような存在だったのかもしれない。子は父に反発し、乗り越えていく壁だが、孫は祖父を距離を取って愛し続けるだけだ。60年代前半の、異種格闘技戦に明け暮れた時代に長く時間を時間を共にする機会があったならば共演する機会もあっただろう。エリントンは、60年代前半の活動は外向的、後半は内向的な傾向にあったように思うのだ。
さて、内容も翻訳も素晴らしいのだが、それぞれ1箇所ずつ、細かい苦言を。
上に引いた部分のエリントンの60年代の活動を指して、「メンバーに一晩でも休みを与えれば、必ずトラブルに巻き込まれる、と。みんな70代の老人なのにだ」というところがあるが、バートンともあろう人が、らしくないテキトーさだ。
55年体制以降のエリントンは一番の年長者がエリントンであって、そのエリントンは1899年生まれ。なので、60年代の活動時はオケに70歳のメンバーはほとんどいなかった。自分よりも年長者の友人も含めて新たなサウンドを追求し続けた40年代とは、ここが決定的に異なるところだ。なので、「70代」というのはちょっと言い過ぎ。もっとも、ここはバートンが意図的に「話を盛った」のかもしれない。
翻訳では、「デュークは僕にとって偶像だった」という箇所だが、これは少し生硬というか意味が取りにくいような。原語は「idol」で、そのまま「アイドル」とするとハロプロやらAKB的なアレを連想してしまうから「偶像」としたと思われるが、意味がわかりにくい。これ、ただ、日本の洋楽雑誌の伝統として、そのまま「アイドル」でもいいような気もする。「中学時代のぼくのギターのアイドルはチャック・ベリーさ。ギターを触っている時間はとにかくコピーばかりしていたなあ」なんて言い方で「アイドル」って使われるので、この文脈なら誤解されないと思う。または「崇拝対象だった」とか、「守護神だった」のような表現のほうがいいのではないだろうか。
で、この内容のところのベルリンのジャズフェスの話だけど、これ、客の気持ちも分からないではない。ベルリンといえば音楽的にトンガッている地域である。エリントンは巡業公演ではエリントンナンバーを一気にメドレーとして演奏するが、これは一種のファン・サービスだったと管理人は考えている。知っている曲、自分の好きなヒット曲をやってくれると客は喜ぶので、自分がそのときやりたい新曲を披露する前にとりあえずサービスしておく、と。このときもそうだったと思うが、それが血の気の多いベルリンの人々の気に障ったのだろう。ドイツ人といえば、70年代の山下洋輔や渋さ知らズを積極的に評価する人々だ。エリントンメドレーは保守的でのほほんとした音楽に聞こえたのだろう。ただ、その後エリントンは当時の研究成果である新曲を披露したはずなので、おいおい、もう少し落ち着いて聴いとけよ、とそのときのベルリン人に言いたい。
この出来事から、「一度たりともベルリン行きを楽しみにしたことはない。あの夜の出来事が記憶から消せないのだ」と書いてしまうところがバートンの真面目さで、こういう性格が1人称の「僕」とぴったりなのだ。
同様の出来事はもう一回語られている。
〈コラム》グラミー賞
グラミー賞を最高の栄誉と考えるミュージシャンは数多い。長いことこの業界にいれば様々な経緯で自分の存在が認知されるものだけど、グラミーを受賞することは別格である。映画製作におけるオスカーと同じく、音楽業界の同業者によって受賞者が決まる、というのがその理由だ。
レコーディング・アカデミー(正式名称はナショナル・アカデミー・オブ・レコーディング・アーツ・アンド・サイエンス)は1959年に産声を上げたが、最初から注目を集める存在ではなかった。事実、グラミー賞授与式がテレビ放送されるまで十年以上も要している。スタン・ゲッツが1965年に「レコード・オブ・ザ・イヤー」の名誉に輝いたときも、アカデミーはロサンゼルスとニューヨークで授与式を同時開催している。それからしばらく経ち、授与式の模様は一時間の特別番組として放送され、一部の受賞者の姿が全国に流されるようになる。僕もバンドリーダーとしての第一歩を踏み出した60年代後半、何度か授与式に参加したことがあるけれど、まだ受賞したことはなかった。ある年のロサンゼルス会場で、タキシードとテニスシューズ姿のポール・マッカートニーを見て、なんてクールな格好だろうと思った覚えがある。またハリウッド・パラディアムのロビーに置かれた長椅子のうえで、リンダ・ロンシュタットが居眠りしているのを目撃したこともある。その横では、彼女の眠りが妨げられないようマネージャーが周囲を見張っていた。これぞショービジネス――そしてショービジネスはグラミーを愛している。
1968年、グラミーは自分のレコードとなんの関係もないところで僕に栄光の瞬間を与えてくれた。僕はいまでも、機会があればそのことを話しているくらいだ。この年、ニューヨークで行なわれる予定のとある主要部門の授与式に、スタン・ゲッツがプレゼンターとして登場するはずだった。しかし彼は現われず、代わりに僕が「ライフタイム・アチーブメント・アワード」をデューク・エリントンに授与することになった。そしてステージを降りた僕に、誰かがこう声をかける。「なあ、スタンがまだ来ていないんだ。ステージに戻ってこの賞のアナウンスもしてくれ」再びマイクの前に立って封筒をあけた僕は、危うく気絶しそうになった。それは今年度の「アルバム・オブ・ザ・イヤー」で、革新的アルバムにして僕のお気に入りの一枚でもあるビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』が受賞作だった。またロックバンドがグラミー最高の賞を授与されるのもこれが初めてである。プロデューサーのジョージ・マーティンがステージに上がり、僕からトロフィーを受け取った――このこともスタン・ゲッツに感謝しなくてはならない。それからずっとのち、僕はジョージに会うべく彼が所有するロンドンのエア・スタジオを訪れ、あの夜のことを憶えているかと訊いてみた。すると驚いたことに、ジョージはもちろん憶えていると答え、あれはビートルズにとって重要な認知の瞬間だったと続けた。しかも、自分は当時すでにゲイリー・バートンのファンだったというので、僕はさらに誇らしくなったものである。だが翌年、グラミーに対する憧憬は失望へと変わった。プレゼンターの選択がまずく、デューク・エリントンにしかるべき敬意を払わなかった、というのがその理由だ。一九六九年、『...and His Mother Called Him Bill』――長年の協力者にして、この世を去ったばかりのビリー・ストレイホーンに挿げた一枚――というデュークのアルバムがベスト・ジャズ・パフォーマンス賞に輝いた。しかしその愚かなプレゼンターはアナウンスしながらレコードを馬鹿にし始め、こんなおかしなタイトルにしたのはなぜなのかなど、数々の暴言を放った。そのあいだずっと、僕らの多くが辟易したのは言うまでもない。そいつがジャズに詳しくなかったのは確かだけど、だとしても……グラミー賞に輝いた作品じゃないか。それに、相手はデューク・エリントンだ。僕はその後グラミー関係のイベントに行くことをやめ、会員資格も失効するのに任せた。しかし数年後、「アローン・アット・ラスト」が一九七二年度ベスト・インストゥルメンタル・ソロ賞――前年に新設された賞で、初代の受賞者はビル・エヴァンス――に輝いてみると、もう一度関わってもいいかなと思ったものだ。
過去50年でレコーディング・アカデミーはすっかり様変わりし、世界同時放送が始まった1971年以降のグラミー賞授与式は、視聴者がもっとも多いイベントの一つとなっている。ジャズがテレビで放送されることは滅多にないけれど、僕は幸運にも1988年と92年の二度、テレピカメラの前で演奏する機会に恵まれた。そしてこの文章を書いている時点で、僕は過去五十年間でグラミーに21回ノミネートされ、そのうち7回受賞している。 (290-292頁)
エリントンは、この『ビリー・ストレイホーンに捧ぐ』と『極東組曲』でグラミー賞を受賞する。晩年において素晴らしい快挙。そして、この受賞は永年功労賞ではないことは、音を聞けばわかる。授賞する方も偉い。
- アーティスト: デューク・エリントン,キャット・アンダーソン,マーサー・エリントン,ハービー・ジョーンズ,クーティー・ウイリアムス,ローレンス・ブラウン,クラーク・テリー,バスター・クーパー
- 出版社/メーカー: BMG JAPAN
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だが、それにしても……誰なんだ! 1968年のプレゼンターって! これはエリントン好きには腹立たしい。そして、そこで「僕はその後グラミー関係のイベントに行くことをやめ、会員資格も失効するのに任せた」とするのがバートンらしい。真面目で、自分の信じるところに真剣。こういうところに精神的な若さを感じるのである。そして、「しかし数年後、「アローン・アット・ラスト」が一九七二年度ベスト・インストゥルメンタル・ソロ賞――前年に新設された賞で、初代の受賞者はビル・エヴァンス――に輝いてみると、もう一度関わってもいいかなと思ったものだ」と書いてしまうのもバートンらしい。…こういうところに精神的な若さを感じるのである。
ちなみに補足しておくと、エリントンはグラミー賞を11回受賞し、22回ノミネートしている。受賞のうち、死後のものは2回。アメリカの音楽業界がエリントンをどう評価していたか、ということを考える上でもこのリストは興味深い。
そしてこの一連のエピソードには、出来過ぎのエピローグが用意されている。
60歳を目前にして、ライフスタイルを変えようと転居を考えていたときの出来事。
なんだか衝動的な行動にふさわしい週末のように思えたので、僕は不動産の広告を見て回ろうと翌日車を走らせることにした。その地域の特徴をつかめればそれでいいと考えたのだ。フォードローダーテールはゲイにとても寛容な土地で、具体的なプランがあるわけではないけれど、少なくとも自分の選択肢を見極める一助になると思った。五軒ほど家を見て回ったあと、興味深い新聞広告が僕の目に飛び込む。「ヴィクトリアパークにエリントン来る。あなたの人生を加速(jazz up)させましょう」僕が知るエリントンのことなのか? すぐさま車を走らせると、そこでは新しいタウンハウスの建築が始まっていた――そしてデューク・エリントンにちなんで名づけられたのもそのとおりだった。開発業者がジャズファン――販売事務所にはジャズフェスティバルのポスターが所狭しと貼られていた――で、四つの基本デザインの名称をそれぞれルイ・アームストロング、カウント・ベイシー、ジョン・コルトレーン、そしてマイルス・デイヴィスからとったという。僕はパンフレットを手に取り、帰りの飛行機のなかで目を通した。そしてボストンに着いたときには、六十歳を迎えることについてまったく違う感情を抱いていた。
一週間後、僕はルイ・アームストロング・タウンハウスの手付け金を支払った。ジャズのつながりがその決断を後押ししたのは確かだ。そこが慣れ親しんだ場所のように思えたのである。僕のヒーロー、デュークにちなんで名付けられた土地を見つけるなんて、いったいどれだけの確率だろう? (420-421頁)
ゲイリー・バートンは本当にエリントンを愛していたのだろう。このオチは出来過ぎだ。そして、タウンハウス自体に「ジャズの父」エリントンの名前をつけるあたり、この不動産業者もわかっている。基本デザインの4つの名前を選ぶのにはかなり心を砕いたに違いない(パーカー、モンク、ミンガスの代わりにベイシーやルイ・アームストロングの名前が入っているのはパブリック・イメージだろうか? 薬物中毒者や変人の名前でデザインされた家には住みたくないだろう、というような)。
以上、ゲイリー・バートンの自伝におけるベートンのエリントンへの強い気持ちと強い愛をみた。あと、バートンが自作でエリントンをカバーしたものと、本書でのエリントニアンへの言及箇所を見たいのだけど、それは次回に。やっぱり2回では収まらなかった。。。