Kinda Dukish (かいんだ・でゅ~きっしゅ)

「デューク・エリントンの世界」別館。エリントンに関することしか書いてません。

『ゲイリー・バートン自伝』 読書感想文に薦めたい本。

あまり期待せずに、「エリントンに関係すること書いてないかな~」程度で手に取ったのだが、これが期待以上におもしろい! 翻訳も優れていて、拾い読みするつもりが一気に読み通してしまった。

ゲイリー・バートン自伝

ゲイリー・バートン自伝

 

 

原書はこれ。

Learning to Listen: The Jazz Journey of Gary Burton: An Autobiography

Learning to Listen: The Jazz Journey of Gary Burton: An Autobiography

 

 

この本を読むまではゲイリー・バートンって特に意識して聴いてなくて、むしろヴァイヴ奏者ならレア・グルーヴの流れでボビー・ハッチャーソンを聴いていたのだけど、この本を聴いて、ゲイリー・バートンをちゃんと聴いてみようと思った。

 

バートンの代表作というと、やはりチック・コリアとのこれになるのだろうか。 

クリスタル・サイレンス

クリスタル・サイレンス

 

 

チック・コリア&ゲイリー・バートン・イン・コンサート

チック・コリア&ゲイリー・バートン・イン・コンサート

 

 

この本、若者が読むべきジャズの自伝として、これからのスタンダードになるんじゃないかな。そう考えてしまうほどおもしろかった!

 

管理人がこの本を薦める理由は次の3つ。

 

 

それぞれ、簡単に説明しておこう。

 

1.ジャズの読み物として

ジャズの読み物といえば、ジャズ・ジャイアンツ自身による自伝、又は伝記は定番。特に自伝はどこまで本当のこと言ってるかアヤシイが、第一次文献として無視することは出来ない。でも、自伝は重要な資料ではあるものの、その重要さと読み物としての面白さが比例するとは限らない。たとえば、マイルスの自伝はサイコーに読んでて楽しいけど、ミンガスの自伝は読むのが苦痛。コルトレーンは自伝を書いてないけど、書いてたとしたら多分おもしろくないと思う。どちらかというと、エリントンの『Music Is My Mistress』もつまらない方かも(ただ、これは邦訳によるところが大きい。原書はエリントン好きには興味深いエピソードの宝庫)。

ゲイリー・バートンは書き手として優秀。特に読みたいエピソードの選択が秀逸で、1943年生まれの1人の成功したジャズ・ミュージシャンの人生を追体験することができる。

 

例えばモンクについてはこんな感じ。

【コラム】セロニアス・モンク
 ジャズファンのあいだでモンクは極めて個性的な人物として知られているが、直接会った人はみな彼から伝わる優しさや親切心に気づく。モンクのキャリアには悲劇的な一面があった。ビバップのパイオニアの一人に数えられるものの、奇矯な振る舞いが多く、精神的に不安定な人間と周囲から見られていたため、スポットライトを浴びるのはいつも他のミュージシャン(特にディジー・ガレスピーチャーリー・パーカー)だった。ロビン・D・G・ケリーによる優れた評伝によると、モンクは人生の大半を通じ、ジャズヘの貢献に対する過小評価に悩んでいたという。しかしその評価にも一理ある。ジャズの世界で成功を収めるのは難しく、時間どおりに(あるいはまったく)姿を見せなかったり、人々が理解できないほどエキセントリックであったりすれば、そのハードルはますます高くなる。モンクと一緒にいると、何が起きるかわかったものではない。それに僕が見るところ、彼に味方する家族や友人こそがその振る舞いをさらに悪化させていたようだ。
 ある夜のヴァンガード、モンク率いるバンドはいつもの曲でステージを始めた。しかしメロディーを一度か二度演奏して次の即興ソロにつなげる(みんなそれを期待している)代わりに、モンクは楽譜のメロディーをひたすら演奏し続ける。数分ほど経って他のメンバーがだんだんと演奏を止めてステージを降りたけれど、モンクはいつまでもそのメロディーを繰り返した。モンクのバンドメンバーと僕のバンドメンバーは半分空になったクラブの後ろ側に立ち、どうしたものかと思案した。ドラマーのベン・ライリーがステージ脇からモンクに向かって叫ぼうとするも、それでも演奏は止まらない。するとマックス・ゴードンが、客全員から喝采を浴びればモンクも演奏を止めるだろうと考えた。そこで僕らは客に拍手を促したけれど、演奏はなおも続いた。さらに十五分ほど経ち、客が困惑し始める。ついに、ベンがピアノのそばに来てモンクを無理矢理立たせ、断固たる足取りで厨房に連れて行ったかと思うとコートを着せ、裏口から表に出した。モンクが方角を見失ったのは明らかだ。しかし翌日の夜、モンクは再び舞い戻って素晴らしい演奏を聴かせた。珍しいことじゃないんだろう。
 ジョージ・ウェインが一九六八年に企画したサマーフェスティバル・ツアーにモンクのバンドも加わることになったので、僕はヴァンガードに加え、街から街へとツアーするあいだも彼らを見ることになった。モンクはどうやら好調のようで、事実、最高傑作のいくつかはこの時期に録音されている。次に彼の姿を見たのは、数年後に行なわれた同じくウェイン企画のツアーでだったが、そのときは状況が一変していた。彼はザ・ジャイアンツ・オブ・ジャズのメンバーとして、ディジー・ガレスピー、サックス奏者のソニー・スティットトロンボーン奏者のカイ・ウィンディング、ベース奏者のアル・マッキボン、そしてドラマーのアート・ブレイキーとヨーロッパツアーを行なっていた。まさにビバップ時代のオールスターグループである。ウェインは彼らビバップ・ミュージシャンの出演前に僕のソロセットを入れていた。いつものとおり、モンクの妻ネリーがアシスタント役としてツアーに同行している。しかしモンクはまるで彼自身でないようだった。ツアーの大半を通じ、人の顔すら認識できないようなのである。いまでも憶えているけれど、彼はいくぶん困惑気味に僕の顔をじっと見つめ、その横ではネリーが「どうしたの、T? ゲイリーよゲイリー。ヴァンガードで一緒に出演したじゃない。憶えてないの?」と繰り返していた。また肉体的にも衰弱しているのか、肌が灰色に近い。演奏にも力がなく、ヴアンガードで聴いたモンクとは思えなかった。
 モンクとネリーはいずれもエキセントリックな人間だった。ツアー中は何一つゴミ箱に捨てないのがその一例である。雑誌や空き瓶なども絶対に捨てず、手に入れたものは残らず二人の荷物となっていた。また立ち寄った場所で小さな土産物を買うのも好きだった。それだから、ツアーが進むにつれてモンクの荷物は信じられないほど増えてしまう。そのうえ、二人はホテルに着くたぴすべての荷を解くことにしていたので、すぐにコレクションを収納する部屋が必要になった。ツアーの終わりごろになると、ギグや飛行機の時間に間に合わせるべく、ツアーマネージャーが荷ほどきと荷造りを手伝う有様だった。
 モンクはそのツアー後に引退したものの、さらに十年近く生き続けた。睡眠と散歩で一日がほぼ費やされていたという。終の住処はニュージャージーにあるアパートメントで、所有者は彼の長年にわたる友人兼サポーターであり、ジャズ界のパトロンとして名の知られたパロネス・二カ・ドゥ・コーニグズウォーターだった。伝えられるところによると、彼はネクタイを締めたスーツ姿のまま一日中ベッドに横たわっていたらしい。一種の痴呆状態にあり、精神状態を改善するために処方された薬がかえって仇になったそうだ。  (250-252頁)

 

他にも、スタン・ゲッツ・バンドでのエピソード、チック・コリアとの共演、ヴィレッジ・ヴァンガード出演にまつわるマックス・ゴードンとの思い出、小曽根真を大いに評価していることなど、興味深いエピソードたくさん。

また、ゲイリー・バートンはバークリーの副理事長でもあり、バークリー大学について知りたい人もその内幕を知る上で参考になるかもしれない。

ただ、ジャズメンに関するエピソードが多い反面、音楽的・楽理的な内容についてはほとんど書かれていない。個人的には、クラシック/ジャズにかかわらず、ヴィブラフォンはほとんどわからないので、この楽器の奏法上のクセとか、この楽器の特異性についても読みたかった。あと、共演したミュージシャンの楽理的な特徴とか。ここまで観察眼があって筆が上手い人なんだから、絶対そういう解説もうまいはず。……でも、これは一般ウケしない、というバートンの判断によるものなのだろう。それに、「そういう話が聞きたいのなら、バークリーに来い!」ということなのかもしれない。

いずれにせよ、ジャズメンのエピソードも豊富で、翻訳の力もあって読み物として良質。その意味でジャズファンには自信をもってオススメできる。

 

2.「マイノリティ」が自分の半生を綴った自伝として

バートンは、軽い意味と重い意味でマイノリティだ。すなわち、「ヴィブラフォン」というジャズではマイナーな楽器奏者であり、「ゲイ」でもある、という意味で。

 

ヴィブラフォン奏者は、この本は大いに参考になるのではないだろうか。

ヴィブラフォンは歴史の浅い(発明は1929年)楽器なので、有名なヴァイブ奏者の大半はいまも存命で活動中だと、僕はジョージ・ウェインに指摘したことがある。その言葉から、一九六八年のニューポートージャズフェスティバルでグィブラフォンーサミットを行なうという彼のアイデアが生まれた。アドバイスを求められることはなかったけれど、メンバーの人選は僕の予想どおりだった。ライオネルーハンプトン、レッド・ノーヴォ、ミル’トージャクソン、ホビー・ハッチャーソン(そして僕)。

最後の「(そして僕)」がおもしろい。この一言に顕著だが、バートンは自分が優秀であることに自覚的だ。でも、それが全然イヤミじゃない。これが管理人がこの伝記をオススメする2番目の理由で、ヴィブラフォンのようなマイナーで持ち運びが不便な楽器奏者が成功するためのノウハウや考え方なども読み取ることができる。

この自伝の興味深い点は、成功したマイノリティによる自伝である、というところなのだ。アメリカには日本と違って「自伝を書く」という文化があり、それは自慢でも何でもなく、後世の人間が参考にするための記録のようなものであり、バートンの自伝もそのようなものとして、ヴィブラフォン奏者とゲイの人々に向けて書かれたのではないだろうか。

  子どものころから同性愛を自覚していたというゲイの男性は数多い。僕が性のことで最初に混乱を感じたのも高校生のころだった。思春期の誰もがそうなるように、僕も性の目覚めを認識したけれど、自分がなぜか他の少年と違っているとはっきり信じていた。ただ、それについてどうすればいいのか、そもそもできることが何かあるのかまではわからなかった。その方面で何か起きているのか見当もつかず、相談できる人間もいない。当時はまだ五〇年代、しかもそこはインディアナの片田舎だったけれど、ぼくはできる限りこの混乱と向かい合った。 (31頁)

このテーマについては、巻末の小曽根真の「不器用なスーパーマン」が胸を打つ。

カミングアウトし、社会と自分に対して堂々と胸を張って生きる同性愛者の自伝、としてもオススメできる。

 

3.エリントンに関する読み物として 

このブログで取り上げるのだから、これは外せない。当然のことながら、管理人はこの内容に一番興奮した。バートンは重度のエリントン Lover である。そして、この本にはエリントンの話だけでなく、エリントニアンも何人も出てくる。ポール・ゴンザルヴェスと録音セッションで同席することになった話や、クラーク・テリーを録音に(だまして)誘った話。マシュー・ジーなんてエリントニアンの中でもかなりマニアックな人物の名前まで登場。

この本を読んでから知ったのだが、バートンはこんな作品も作っている。

 

Burton, Leonhart, Clarke, Beck Play The Music Of Duke Ellington

Burton, Leonhart, Clarke, Beck Play The Music Of Duke Ellington

 

 

バートンがエリントンを敬愛するのは、エリントンがゲイ・同性愛に対して寛容だった、ということも大きく、ストレイホーンについても言及している。敬愛するあまり、エリントンをバカにしたり軽んじたりする人々には容赦がない。そのような人々に対する自分の態度もはっきり書かれていて、ここらへん、バートンの潔癖さというか、若者的な硬直的な真面目さが表れているところで好ましい。

この硬直的な真面目さを表現するに辺り、「僕」という1人称は正解。管理人はこの「僕」という1人称が大嫌いで、ビジネスでこれを使う人間は信用しないくらいなのだが、バートンの「僕」は実にしっくりきた。これは訳者、熊木信太郎氏の力量だろう。原書発表当時のバートンの年齢は70才だったはずだが、こういう使い方もあるのか、と勉強になった(熊木氏もこの点についてあとがきで言及している)。

 

最後に、管理人が「この本をオススメする3つの理由」を象徴するような箇所を引いておく。この本、中学生とか高校生が読むといいと思うよ。実際に書くか書かないかは別として、「読書感想文に薦めたい」というのはそういう意味なのだ。

 

1959年夏、僕の人生は大きく変わる。雑誌「ダウンビート」を読んでいたところ、スタン・ケントン・ステージ・バンド・キャンプなるものの広告が目に入った。そのときからいまに至るまで、ジャズキャンプという事業は繁栄を続けており、全国の生徒に密度の濃い演奏機会を与えている。だが当時、そうしたイベントはまだ黎明期にあった。僕にとって幸運だったのは、会場のインディアナ大学が家からわずか数時間の場所にあったことである。
 …ハイライトは週末にやって来た。近隣のフレンチ・リックで催されるジャズフェスティバルに出演するよう、僕ら学生バンドにお呼びがかかったのだ。…
 僕は翌日もフェスティバルに残り、ディジー・ガレスピージェリー・マリガン、そしてライターのレオナルド・フェザーによるジャズ関係のパネルディスカッションを見学した。そこには「ダウンビート」誌に名を連ねる人物が何人もいた。フェスティバルのフィナーレを飾ったのはピアニストのエロール・ガーナーとエリントン・バンド――生演奏を見たのはこれで二度目だけど、どの瞬間も愛おしくてたまらなかった。
 キャンプに戻る道すがら、僕は今後の進路を考え直した。高校で全教科Aの成績をとり、全国優等生協会への加入を認められていたこともあって、それまでは(父と同じ)エンジニアもしくは医者といった昔ながらのキャリアに向かおうとしていた。すでにインディアナ大学医療大学院から資料を取り寄せ、病理学のキャリアも面白そうだと考えている。しかしジャズキャンプの一週間は、僕の心を完全に捉えてしまった。夢のような七日聞か終わりを迎えるころには、ジャズミュージシャンになりたいとはっきり自覚していたのである。
 そして当時はまだ気づいていなかったけれど、インディアナを離れてジャズの世界に加わるという、一九五九年に僕が下した決断は、自身の性的混乱にどう向き合っていくかも決めることになった――ジャズ界で身を立てるなら異性愛者でなくてはならない。
(33-37頁)