今日の記事はエリントンとザヴィヌルの関係の核心です。
少なくとも管理人はそう考えていて、この出来事があったからこそ、ザヴィヌルは終生エリントンのことを考え続けていたのではないでしょうか。
例によってグラサーのこの本からの引用です。
アメリカに渡ったザヴィヌル、なんやかんやあって、ダイナ・ワシントンのバンドから、当時名声を博していたアダレイ兄弟のバンドにスカウトされます。アダレイ兄弟の期待を裏切らず、着実にこのバンドでのキャリアを重ねていくザヴィヌル。
時は「Mercy, Mercy, Mercy」 前夜の65年。
ザヴィヌルにとっては僥倖としか言いようのない「最高の経験」をみてみましょう。
最高の経験
キャノンボール・アダレイのバンドに加わったことで、ジョーはジャズ界において確実な地位を築き上げていく。ライヴを数多くこなし、定期的にレコードも作る(このグループは一年に少なくとも数枚のLPを出した)といった申し分のない状況のなか、ジョーはファンやミュージシャンたちからも注目されるようになった。懸命に経験を積み上げていた時期ではあったが、ジョーの選択は間違っていなかっただろう。彼の視界は大きく広がっていった。
こうした日々を送るうちに、ウィーン出身のジョーにとっては夢のようなことも何度か経験することができた。1965年のことだ。ジョーはナット・アダレイに連れられ、ニューヨークで行なわれていたデューク・エリントンのレコーディング・セッションを見学に行った。エリントン・オーケストラのトランペット・セクションのメンバーがひとり欠けており、ナットがその代行をつとめることになっていたのだ。その場に居合わせたジャズ評論家のラルフ・グリーソンが著書『セレブレイティング・ザ・デューク』のなかで、そのことに触れている。「ナット・アダレイは帽子にサングラスといった格好で、腕にトランペットを抱えトランペット・スタンドヘと上がった。アダレイのバンドのピアニストであるジョー・ザヴィヌルはまるで我を忘れたようにはしゃぎ、隅に座りこんだ」
Celebrating The Duke: And Louis, Bessie, Billie, Bird, Carmen, Miles, Dizzy And Other Heroes
- 作者: Ralph J. Gleason
- 出版社/メーカー: Da Capo Press
- 発売日: 1995/08/21
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それでもまだ満足できなかったのだろうか。セッションが終わり、ミュージシャンが解散する頃になると、なんとジョーはデュークに演奏を披露することになったのだ。グリーソンはこう続ける。「ジョー・ザヴィヌルが〈カム・サンデイ〉を弾き始めると、エリントンはピアノの前に座るジョーに寄りかかった。その間、そこにいたメンバーの半分ほどはぼんやりと立っていた。演奏が終わると、デュークはジョーの手を取った。ジョーはかぶっていたアルパイン・ハットを取り、おじぎをした。するとデュークは『いつもこうしてピアノに寄りかかっていたから目の下がこんなにたるんじまったのさ。アート・テイタムやファッツ・ウォーラー、ジェイムズ・P・ジョンソンたちの演奏に耳を傾けながら、こうして寄りかかっていたからね』と言った」
あれから三〇年経った現在、ジョーはこのデューク・エリントンとの思い出を、感情を込めて表現する。「私が〈カム・サンデイ〉を演奏すると、彼は目に涙をためていた。”私よりも〈カム・サンデイ〉をうまく弾けるじゃないか” と言ってくれた」。どういう状況であったにしろ、エリントン・バンドのバリトン・サックス奏者、ハリー・カーネイがこのとき撮った写真はジョーの宝のひとつであることにはちがいない。
すごい。
これ、30年前にストレイホーンがエリントンと初めて会ったときのエピソードにそっくりじゃないですか! これこそ、ザヴィヌルとエリントンとの関係を象徴するエピソードです。この事実を知ったとき、わたしは鳥肌が立ちました。
…といっても、ストレイホーンのエピソードをご存知なければこのすごさが伝わらないと思いますので、簡単にストレイホーンのエピソードを説明しましょう。
1938年、当時23歳のストレイホーンは演奏を終えたエリントンの楽屋を訪れました。ライブ終了後の無愛想なエリントンを前に、怖いもの知らずのストレイホーンはそこにあるピアノで、まさにその日エリントンが演奏したとおりに「Sophisticated Lady」を演奏しました。
ただエリントンそっくりに演奏しただけではありません。それから、「でも、僕ならこう弾きます」と告げるや、異なるキーで、少し速いテンポで演奏します。ストレイホーンが入ってきたときは彼に目もくれなかったエリントンは、これを聴いてストレイホーンに向き直り、ハリー・カーネイを呼びます。カーネイは、ストレイホーンが「Solitude」を弾くのを聴き、ホッジスとアイヴィー・アンダーソンを連れてきます。ギャラリーが増えたところで、ストレイホーンはおもむろに自作の「Something to Live for」を披露。……こうして Lennon-McCartney に並ぶ、20世紀を代表するダブルクレジットの始まったのです。
エリントンとザヴィヌルの邂逅、時代が違えばストレイホーンの席に座っていたのはザヴィヌルだったのかもしれません。これはすごい話だなあ。
あ、このときの「ハリー・カーネイがこのとき撮った写真」とはこれです。
このときザヴィヌルが「Come Sunday」というエリントン濃度の濃いエリントン・ナンバーを選択したのは偶然ではありません。
というのも、この2年前、ザヴィヌルはベン・ウェブスターのリーダー作で「Come Sunday」を演奏しているのです。
この amazon リンク画像ではわかりにくいのですが、ジャケットのピアニスト、ザヴィヌルですよね。
なんと、当時のザヴィヌルが「Come Sunday」を演奏している動画もあります。
64年の演奏なので、この『Soulmates』を踏まえた演奏。
上述のDE-JZのエピソードは、生まれるべくして生まれたことがわかります。
Cannonball Adderley Come Sunday 1964
ザヴィヌルはこの出来事を忘れることはありませんでした。
ウェザー・リポートで「Rockin'in Rhythm」をカバーしたのも、『My People』なんてタイトルのアルバムを発表したのも、この若き日の経験があったからに違いありません。
WRの活動を終えた後、ザヴィヌル・シンジケート時代にも「Come Sunday」をカバーするのです。
Zawinul Syndicate / Sabine Kabongo - Come Sunday
エリントンとザヴィヌルの関係を考えるには、65年の「Come Sunday」を外すことができないのです。
ザヴィヌルとベン・ウェブスターについては次の機会に。グラサーの本に詳しいのですが、これはこれで興味深い話なのです。