Kinda Dukish (かいんだ・でゅ~きっしゅ)

「デューク・エリントンの世界」別館。エリントンに関することしか書いてません。

バートンが出会った3人のエリントニアン。 -『ゲイリー・バートン自伝』03

前回までの2回のエントリで、ゲイリー・バートンの自伝について書いた。

今回はその続き。前回までに触れられなかった、バートンが出会った3人のエリントニアンについて。はじめに白状しておくけど、この本については今回でも終わらなかった。あと1回で終わるかなあ…。

 

 

 

ゲイリー・バートン自伝

ゲイリー・バートン自伝

 

 

まず、バートンによるエリントン曲のカバーについて。

バートンはアフロ・アメリカンではないし、ECM系ミュージシャンの傾向として、エリントンとの関係はあまり感じてなかったので、ここまでバートンがエリントンLoverなのには意外な感じがした。

だが、調べてみると割とコアなカバーをしてるのである。

 

Burton, Leonhart, Clarke, Beck Play The Music Of Duke Ellington

Burton, Leonhart, Clarke, Beck Play The Music Of Duke Ellington

 

 

94年、11/8の録音。 このCDは、こんなジャケットのものもあるようだ。

…う~ん、なんというか甲乙つけがたい(悪い意味で)。

 

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他には、「DEPK」(『極東組曲』)をやってるこんなのもある(録音は96年9/20-22)。 

Departure

Departure

 

それと、これはミンガスの曲だけど、さらに古いところでは、「Duke Ellington's sound of love」をカバーしてるこんなのもあった。 

『Picture This』(1982)

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ただし、これ、CD化されてないみたいで、選集という形でECMから出てる。

Rarum 4: Selected Recordings (Dig)

Rarum 4: Selected Recordings (Dig)

 
Selected Recordings

Selected Recordings

 

たぶん調べればまだまだありそうだけど、とりあえずいまのところはこの辺でやめておいて、後は今後の課題ということにしておこう。

しかし、こうしてみると、チック・コリアのこれもバートンの影響のように思えてくるぞ。

Three Quartets

Three Quartets

 

これの#3 が、Quartet No. 2" - Part I (Dedicated to Duke Ellington)。

『Three Quartets』の録音は81年。ということは、 70年代にバートンと怒涛のセッションを繰り返したコリアが、バートンからエリントンについて何か影響を受けた…とか。

これは妄想の域を出ない。だって、これのPart II は「dedicated to John Coltrane」。全然関係ないじゃないか。まあ、この脈絡のなさがチックコリアの魅力でもあるんだけど。

 

さて、エリントニアンについて。

まずは、バートンが自分の第二作の制作にあたり、クラーク・テリーを利用したエピソード。ということは62年の話だ。

 

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 続いて、「トゥナイト・ショー」に出演していたトランペット奏者、クラーク・テリーを収録後に捕まえるべく、僕は一週間ほど毎晩ロックフェラセンターの前で待ち続けた(当時、「トゥナイト・ショー」はラジオシティーから放送されていた)。そしてようやくコンタクトに成功したのだが、19歳の子どもからレコーディングヘ参加してほしいといきなり言われたものだから、相手は当然ながらむすっとしていた。しかし僕はフィル・ウッズの名前を出し、そのうえで話を少し誇張して――いや、正直に言おう。はっきり嘘をついて――、ジャズ界でもっとも尊敬されているピアニストの一人、トミー・フラナガンもすでに雇ってあると言った。これら懐かしい名前を聞いたクラークは急に顔をほころばせ、セッションにはきっと参加すると答えた。ついで僕はトミー・フラナガンの電話番号を調べ、電話に出たトミーに自己紹介すると、クラークとフィルが僕のレコードに参加すると告げた――それでトミーからもイエスの返事を引き出せた。さらに僕はボストン在住のベーシスト、ジョン・ネヴェスと、一緒にウルグアイを旅した学生バンドのトロンボーン奏者、クリス・スワンセンをグループに加えた。またクリスにはチャートを何枚か書くよう依頼した。
 一九六二年九月に行なわれたレコーディングはスムーズに進んだ。特にフィルの演奏とクリスのアレンジには心から満足した。RCAはこのレコードを「フー・イズーゲイリー・バートン」と銘打ち、暗いシルエットの写真をカバーに使った。僕はアルバムのカバーを飾るのにまだ若すぎると判断されたらしく、以降も同じパターンが繰り返される(僕は自分の写真がカバーに使われるのを常に望んだけれど、そうならないことがほとんどだった。なぜそんなに難しいのか、僕には理解できない。僕はリーダーとしていままで六十枚以上のレコードを世に送り出したものの、自分の写真がカバーを飾ったのはわずか十枚ほどである)。 (93-94頁)

 

やるねえ、ゲイリー。

成功するには、これくらいの戦略というか厚かましさが必要なのかもしれない。人生はハッタリと好奇心だ。こうしてみると、若きマイルスなんてかわいいもんだ。

Who Is Gary Burton

Who Is Gary Burton

 

 

もっとも、これは実力のない人間はやってはいけない。あくまで結果オーライだったから、笑い話で済むのだ。ジャケットはこれはこれでいい出来だと思うのだが…バートンの自己顕示欲を満足させることはできなかったみたい。

 

次のエリントニアンはかなりマニアック。トロンボーン奏者のマシュー・ジー(Matthew Gee)。あまり耳にしない名前だが、59-61年に入退団を繰り返した人物で、このエピソードはまさにそのあたりの期間、61年頃の話。

 コネリーズ(バークリーのあるボストン市のロックスベリーという黒人居住区にあった薄汚いバー(原注))ではソロ演奏が行なわれることもあり、そのときは地元のリズムセクションがステージに立った。そしてある週末、僕はトロンボーン奏者マシュー・ジーとの共演を持ちかけられる。ジーはジャズ界でこそ大スターではなかったものの、一時期エリントン・バンドで演奏したことがあり、それでコネリーズからオファーが来たのだった。
 僕ら地元グループ(ヴァイブ、ベース、そしてドラム)は先に来て準備を始めていたが、ジーが店にやって来た瞬間、大変な一夜になるのが目に見えた。なにしろ、演奏前からしこたま飲んでいたのである。ジーはどの曲を選ぶのだろうか。彼の曲なんて知ってたっけ? スタンダード? それともオリジナル? だが結局、僕の心配はどれも的外れだった。
 ファーストセットの一曲目として、ジーは〈ブルース・イン・F〉を選んだ――簡単な基本曲だ。次に彼の口から出たのは〈プア・バタフライ〉。僕はその曲をほとんど知らなかったけれど、簡単すぎて難なく演奏できた。だがここでおかしくなる。ジーはまたも〈ブルース・イン・F〉にしたかと思うと、一息入れて〈プア・バタフライ〉に舞い戻ったのである。少し変だと思ったが、まだ始まったばかりだ。しかしその夜、ジーは結局〈ブルース・イン・F〉と〈プア・バタフライ〉の二曲を行ったり来たりするだけだった。
 通常、一回のセットが四十五ないし五十分以上かかることはない。ところがそのときは一時間半が過ぎ、このままではジーがいつまでも演奏を繰り返しそうなので、ようやくオーナーが僕たちにストップをかけた。セカンド・セットでジーが別の曲をやろうとしたのは億えているけれど、結局〈プルース・イン・F〉と〈プア・バタフライ〉の繰り返したった。夜が更けるにつれ彼はますます体力を消耗し、ついには立つことさえままならなくなった。僕はといえば、観客の反応に興味を惹かれていた。特に、僕たちが同じ二曲をずっと繰り返していることに、誰も気づいていないのが驚きだった。こんなこと、どう説明すればいいのだろう。
 幸いにも、セカンドセットの終わりを迎えてジーが前後不覚になるころには、観客の姿もまばらになつていた。彼は腕を伸ばしたまま、トロンボーンのスライドを握る手から力が抜けている。持ち主の手を離れたトロンボーンは観客のほうへ転がっていった。いまや半分となった自分のトロンボーンを、ジーは虚ろな目でじっと見つめ、左右にふらふらと手を振り始める。そしてヴィブラフォンに手を伸ばして体を支えようとしたものの、楽器全体を最前列の座席めがけて引き倒すようにして、そのままステージに倒れてしまった。
 共鳴管、トロンボーンの部品、木の折りたたみ椅子、そして下敷きになった二人の観客を、僕は呆然と見下ろした。けが人はなくヴァイブにも大きなダメージはなかったけれど、トロンボーンはめちゃくちゃに壊れていた。しかしそれにも増して痛かったのは、その後すぐクラブのオーナーが姿を見せ、今夜はもちろん今週末ずっと、君らの演奏は中止だと言い渡したことである。(61-63頁)

残念。これは悪い思い出だ。

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残ってる写真も数少ないのだが、この写真のジーも酔っ払ってるんじゃないの?

両方とも、思いっきりベルがマイクから外れてるんだけど…。 

エリントンオケのトロンボーンバストロ含んで3本と少数精鋭で、音楽的には優秀なプレイヤーが多かったと思うけど、人間的にはなんか変な人ばっかり、という印象がある。反体制側のローレンス・ブラウン、綾戸智恵とのゴタゴタがあったチャック・コナーズ、体制側の人間としてエリントンとの関係は良好だったが、ミンガスと刃傷沙汰一歩手前までいったファン・ティゾール。

マシュー・ジーの入退団記録は慌ただしい。

1959年 11/13にクエンティン・ジャクソンに代わり入団。

翌60年 3/1退団、同年9月再入団。

翌61年 6月退団、同年11月再入団、翌月12/20退団。

最後の1ヶ月は「トラ」というか助っ人のようなものだと思うが、それにしても財団期間は短い。通算して1年半くらいで、連続して1年もいなかった。

それでも、タイミングがよかったと言うべきだろう、2枚の作品の録音に参加している。

 

BLUES IN ORBIT

BLUES IN ORBIT

 
Swinging Suites by Edward E. & Edward G. (Remastered 2015)

Swinging Suites by Edward E. & Edward G. (Remastered 2015)

 

後者は、いわゆる『三大組曲』からチャイコフスキーくるみ割り人形を除いた、ペール・ギュントと「木曜組曲」を収録。*1 

 

さて、お待たせしました、最後のエリントニアンは我らがポール・ゴンザルヴェス。

これも61年頃のことだが、予期せぬ出会いだったようだ。

 

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 こうしたつまらない出来事(管理人注:上記マシュー・ジーの件)がいくつかあったものの、ボストンにおける最初の一年は信じられないほど充実したものになった。バークリー音楽院とボストンの音楽シーンのおかげで、吸収できる限界の早さで音楽を学べたのがまず一つ。それにボストンに腰を落ち着けてからは、セッション一回につき十ドルのギャラで、地元にいくつかあるスタジオでのレコーディングにも招かれるようになった。たいていの場合、これらレコーディングは地元企業のCMで使うジングルの収録か、地元歌手のバック演奏のいずれかだった。ラジオの天気予報で様々な気象現象を再現したいというので、その音響効果を録音するために雇われたこともある。そんななかに、ジャズ経済学の教材として際立つものが一つあった。
 ある日曜日の早朝のこと、セッションがあるのでスタジオに「直行せよ」との電話が家にかかってきた。日曜朝にセッションするなど妙な話だし、事前の猶予がほとんどないのはもっと奇妙である。加えて、そのスタジオも悩みの種だった。建物の三階にあり、ヴィブラフォンを運ぶのに階段を何往復もしなければならない。しかし十ドルといえば一週間分の家賃にあたるし、僕は引き受けた。

 スタジオに着くとセッションはもう始まっていた。いつものジングル収録ではなく何かのジャズプロジェクトのようだ。調整室のほうを見ると、見知らぬミュージシャン数名に混じって、僕の講師であり街一番のドラマーでもあるアラン・ドーソンの姿が目に入った。階段を往復して息も絶え絶えだった僕はしばらく呼吸を整えていたが、演奏の水準の高さをすぐに感じた。いずれも当時のジャズグループにしては珍しい、あまり聞き覚えのないキーで演奏しており、流れるようなテナーサックスが特に印象的だ。一曲が終わり、僕はスタジオに入ってヴィブラフォンの組み立てを始めた。ところがテナーサックスを吹いていた人物こそ、かのデューク・エリントン・バンドでソリストとして名を馳せたスター・プレイヤー、ポール・ゴンザルヴェスではないか!
 僕は仰天した。日曜日の朝、普段はジングルの録音に使うここボストンの狭いスタジオで、ジャズ界の生ける伝説が地元ミュージシャンに混じって演奏しているなんて! その朝、僕らは五曲ほど演奏した。けれどその録音は手元にない。なにせ、リリースされたかどうかもわからないのだ。
 メジャーなミュージシャンがギャラの低いマイナーな仕事をこなすのを目にしたのは、これが初めてだった(その後何度も目撃することになる)。そんな仕事をどのくらいしているのか――あるいはしなければならないのか――を考えると、僕はいつだって悲しくなる。この場合、エリントン・バンドは前夜にこの街で公演を行ない、そこで誰かが翌朝のレコーディングをゴンザルヴェスに依頼したのだろう。
ギャラもささやかな額だったはずだ。他にどんなミュージシャンが参加するのか、あるいは録音された音楽がどう扱われるのか、ゴンザルヴェスは知らなかったに違いない。これも金を使う一つの方便に過ぎないわけだ。
 僕らはただ演奏したいから演奏することもあれば、他のミュージシャンを助けるために演奏することもある。またときには、金が必要だという理由で演奏することだってある。計り知れない時間を練習に費やし、自分の技術をより高めることに集中しているにもかかわらず、状況のせいでそれらを脇にのけねばならないことも往々にしてあるのだ。
 ジャズは常に、高尚な芸術――クラシック音楽、美術、あるいは演劇――と、大衆受けするポピュラー文化とのあいだの興味深い位置を占めてきた。クラシック音楽を例にとると、どの時代にも高い意識を持った好事家がいてかなりの資金援助を行なっている。一方、ポピュラー音楽が芸術面で高い評価を受けることは難しいけれど、それを補って余りある商業面の可能性が存在する。ジャズミュージシャンはそのあいだのどこかで暮らしているわけだ。僕らが受け取る資金援助はクラシック音楽のそれに比べて低く、商業面での成功といってもポップ・スターのそれに比べればたかが知れている。特にジャズの黎明期、もっとも名の知れたジャズスターでさえその暮らしぶりは慎ましいものだった。こうした状況は一九七〇年代から八〇年代にかけて大きく改善する。しかし数多くのジャズミュージシャンはいまも、自分が信じていることと、生き延びるために自分がしなければならないこととのあいだで、日々葛藤を繰り返しているのだ。 (64-65頁)

ずいぶんポールを評価してくれている。ジャズという音楽の位置づけ、そして、ジャズミュージシャンの一般的な待遇の悪さについて、ポールを象徴として話を広げているわけだが……うーん、ちょっと祭り上げすぎじゃないかな。もちろんポールは素晴らしいプレイヤーだと思うし、もう少し広く知られてもいいと思うけど、看板テナーなのにこんな感じの夜は珍しくなかったようだし、

f:id:Auggie:20170815171708j:plain (熟睡中)

ラス・ヴェガスではレイ・ナンスらとドラッグで逮捕されたりもしてるので、ポールを例として上記の主張をするのはどれくらい適切なのだろうか、なんて考えてしまう。

個人的には、

「ミスター・ゴンザルヴェス、スター・プレイヤーであるあなたに恐縮ですが、簡単なレコーディングに参加してもらえませんか?」

「いいよー」

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みたいな感じで、気さくに応じて、本人もそんなに気にしてなかったんじゃないかな、という気がするのである。何より、ポールはセッション自体が嫌いではなかったはず。エリントンオケに在団中もソロ名義の作品を残しているし、サイドマンとしてもフットワークが軽い。

 

もちろん、バートンが述べているのはジャズ・ミュージシャン全体の待遇改善の話で、バークリーの副理事長というエスタブリッシュメントの立場としては、このような主張するのは至極当然のことなのだが…管理人としては、ジャズ・ミュージシャン、ポール・ゴンザルヴェスに関する1エピソードとして受け止めた。

ともあれ、以前このブログでも書いたようなポールの参加作品は、このようにして録音されたのだろう。

 

 

次回はライオネル・ハンプトンと並ぶヴィブラフォンシロフォン創始者であるレッド・ノーヴォと、その他のことについて。

 

*1:当時は、まず「くるみ割り人形」が発表され、その後、この2つの組曲が発表された。