Kinda Dukish (かいんだ・でゅ~きっしゅ)

「デューク・エリントンの世界」別館。エリントンに関することしか書いてません。

武満徹が聴いた、1968年のデューク・エリントン。

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武満徹がエリントンについて残したコメント、は以前このブログで引いておいた。

 

 

同じ本に、音楽に関する抽象的な思索の中で、エリントンについて言及している箇所があるのでこれも引いておこう。こちらはより抽象的な内容であり、その思考を理解するには丁寧に論の流れを追う必要がある。

 

時は1968年1月、武満は前年にロックフェラー財団の招聘により渡米し、その11月に「ノヴェンバー・ステップ」の公演で成功を収めていた。だが、アメリカの文化に馴染めず、翌2月にはパリを経由して日本に帰国することを考えていた。そんなとき、武満は師事することを考えていたエリントンのコンサートに足を運ぶ。 

 

武満徹エッセイ選―言葉の海へ (ちくま学芸文庫)

武満徹エッセイ選―言葉の海へ (ちくま学芸文庫)

 

 

Mirror 

 …音楽は祈りの形式である、とひとりの友は言う。たぶん、私自身の音楽行為も、それを言葉にして整え表わすなら、その行為を支えている多層な感情は、祈りという一語に集約されるかもしれない。むしろ他の言葉によっては説明し得ぬものである、と言って差支えない。だが、祈りはここでは既に言葉では無いなにものかである。
 自分の行為を捧げる対象というものが気がかりである。音楽という使用価値は無にも等しい行いを通して見ているものは、あるいは見ようとするものを、どう呼べば良いのか――。
 バッハがそのマニフィカート Magnificat で描いたひとすじの旋律の線は、個人の感情の諸要素と全く一致しており、たんに音の機能の帰結としてのみそれを見ることは不可能である。近代西欧音楽においても、論理や音の物理学がはじめから音楽に先行することは無かったのだ。むしろそれが音楽というものの論理でもあり、機能であったはずである。
 バッハは、かれを内から突動かす不分明の力にたいして敬虔であり、その深さにおいて天才であったと言えよう。そして、その力が向うところには神があった。しかも、その個人の天才は、時代と地域社会の土壌に根差したものであり、たやすくは抽象しえないものであった。
 だが、近代的な自我を獲得した後の文明社会は、個人の存在をできるだけ遠くへ拡散させる方向に進み、テレ・コミュニケーションは地域社会を都市化へ向わせ、多量な情報のなかで、ひとは一様に虚しさに囚われている。それを癒すために執られる手段は、またそれ自体が自立して人間ばなれしたものになる。人間の個性は極めてエキセントリックになり、社会的な繋がりは次第に失われて行く。人間は各個にはばらばらでありながら、個人の営みはかならずしも充実しない。そこではむしろほんとうの個人を保つことは難しい。
 一九六八年の冬、マンハッタンの一二〇丁目にある聖ジョオン長老教会(プレスビテリアン)で、デューク・エリントンは「自由」という名の慈善コンサートを行なった。当時、エリントンは、英国王室からSirの称号を贈られたばかりで話題をあつめていた。その夜はハドソン河から吹きつける凍るような風のなかを七千を超える多数の聴衆が、一八九〇年代に建てられ現在もなお建築工事がすすめられているそのゴシック風の大伽藍(カテドラル)に集まった。
 演奏者たちはアフリカの諸地方の民族衣裳を纏い、視覚的にも色彩的(カラーフル)であった。しまいには聴衆のなかからも多数の黒人が口々に「自由」を叫び、長い列となって、会衆の間を歌い踊り、縫い歩いた。デューク・エリントンもまた、オルガンを叩きつけるように演奏しながら、かれの内面のもっとも深い部分から発せられていると思われる声で、「自由」という言葉を、世界各国の言葉で叫(シャウト)んだ。
 その音楽は名付けようもない魂の状態であり、欲望の匂う祈り(プレイヤー)であった。
 黒人哲学者サイラス・モズレー氏は、〈ジャズはリズムでもなく、またメロディーでもない、ジャズは次第に発展していくという形式でもない。ジャズは、演奏者が歌の途中、いかなる瞬間にでも感じたものを表現しようとする個人の自由というものであり、演奏されている間に想像もつかないほどの悲しみの底からつくりだされる感情なのだ〉と語っている。
 孤独な感情が触れあうところに、音楽が形をあらわす。音楽はけっして個のものではなく、また、複数のものでもない。それは人間の関係のなかに在るものであり、奇妙に聞こえるかもしれないが、個人がそれを所有することはできない――。反響する伽藍の片隅で、私はそう思った。
 インドネシアでの、あの溢れるようなガムランの響きのなかで感じたことも同じであった。音楽は個人がそれを所有することはできない、が、しかしまた、音楽はあくまでも個からはじまるものであり、他との関係のなかにその形をあらわす。しかもこれは社会科学的なテーゼではなく、むしろ神学的主題なのである。
 友が言うように、音楽は祈りの形式(フォーム)であるとすれば、人間関係、社会関係、自然との関係、(そして、神との関係)すべてと関わる関係(リレーション)への欲求を祈りと呼ぷのだろう。たしかに私は、音楽がそこに形をあらわすような関係というものを待ちのぞんでいる。
 こうした内面の問題では、バッハの音楽もジャズもガムランも、私にとっては実は区別して考えられるものではない。しかし、文明の質と性格の違いのなかでの、個の在りかたと、そこに生じる関係については考えなければならないだろうと思う。
 私は日本人であり、それでかなり特殊な視点からこのような問題を考察していると思うのだが、またそれが思考を煩瑣にしているのでもあろう。殊に日本の伝統音楽について考えるときは、かなり屈折した回路に自らを追いやっているようにも感じる。半面では不自然でもあるなと思いながら、しかし避けられないことなのだと思う。
 私は前に、邦楽のなかでの音は、その所属する音階を拒むもののようである、と書いたが、これはいま改めて書きなおせば、邦楽は関係のなかに在る音楽ではなく、反ってそうした関係を断つところに形をあらわすのだ、と言えるようにも思う。西欧の天才性とは全く異った意味において完結する個人芸、つまり名人の存在があり、しかもそれが「家(元)」や「風」あるいは「流」において閉ざされるのはなぜだろうか。私はその良否を問うものではない。しかし、気がかりなことではある。(56-59頁)

ところどころ振られるルビはもはや「武満語」と言ってもいいだろう。

さて、このとき武満が聴いたのは、アリス・バブスを迎えた「Second Sacred Concert」だった。

 

Second Sacred Concert Live

Second Sacred Concert Live

 

 

ちなみに、管理人がもっているジャケットはこっち。

Second Sacred Concert

Second Sacred Concert

 

 

LPはこれ。

Second Sacred Concert

Second Sacred Concert

 

 

このとき、武満の中のエリントン像が変化する。

エリントンは「オーケストレーションのマエストロ」から、「集団演奏における個の自由の表現者」となった。 もう少し詳しくいうなら、「絶妙なオーケストレーションを実現するためには、演奏者の「個の自由」が確立されていなければならない。「個の自由」が確保されていればこそ、集団表現としての音楽が可能となるのだ」という認識に至った。

 

 よく読むと、1989年のライブ・アンダー・ザ・スカイのコメントも、短いながらもこの認識を凝縮させて書いていることがわかる。

 

さらに、武満はこのときのエリントン体験から、オーケストレーションについての考えを変化させ、オーケストレーションにおける「個の自由」の確立に心を砕くことになるのだが、それについてはまた次回に。