武満徹とエリントンとの関係について、これまでに2回にわたって武満自身の文章を基に考えてきた。この問題については、タケミツ研究者の本を参考にして、とりあえずこのエントリで最後にしたい。
武満徹本人の文章ではないので「武満語」もなく、読みやすいはずだ。
「そんなに読みにくいですか…」
この武満徹の研究書は、生い立ちから死までを追った詳細な伝記で、非常に参考になった。注、索引も充実していて言うこと無い。
たとえば――武満の父親はジャズが好きで、デューク・エリントンを当時の流行音楽として聴き、ジャック・ティーとかジョニー・ドッズなんかをよく聴いていた人らしい。 ただ、音楽に関しては尺八をかじった程度。武満は、尺八は分からないが、ジャズを聴いた影響は間違いなくある、ということを自覚していた――なんて感じで、資料として頼もしい。
そして、管理人が期待する、1967-68年、ロックフェラー財団の招聘に応じて渡米した時のエピソードも丁寧に書かれている。
財団から助成を受けて渡米した武満の当初の予定では、アメリカで一年は過ごすはずだった。ところが1ヶ月もたたないうちに、武満は帰国を考え始めていた。…(中略)…
これはホームシックだろうか? 出発前の期待がしぽんでしまった感がある。ヨーロッパとアメリカを実際に訪れてみて武満は、その地に自身を引き留めるほどの強い関心を引くものに出会うことができなかった。
ところで、武満はロックフェラー財団の招聘でアメリカヘ渡る際に、申請書類の師事したい作曲家を書き込む欄に、当初デューク・エリントンの名を記したという。しかし財団から「なにをばかな、あなたはクラシックの作曲家でしょう。もっと偉い先生がいっぱいいるだろう*1」と、冗談ととられ、受け合ってもらえなかった。
武満がエリントンから学びたいと思っていたのは、オーケストレーションだった。しかたなしにコンサートヘ足を運んだ。それは一九六八年の一月十九日に、マンハッタンの教会でエリントンが催した自由(フリーダム)という名の慈善(チャリティ)コンサートだった。*2武満は、耳を澄ませて音楽を堪能した。しかし、エリントンに近づくことなく去った。というのも、「実際、生で聴いて、絶望的に*3」なったからだった。いったい、何にそれほど落胆したのか。続けて武満はこう理由を話した。「それぞれエリントン楽団には際立って個性的なプレイヤーがいてそれをデュークがさらに大きな個性でオーガナイズ、コラボレートさせることによってあれだけの得もいわれぬ魅力的なサウンドを作っているわけです」。
エリントンのオーケストレーションの秘密が、楽器の単なる組み合わせではないと、武満は生の音にふれて実感した。その影響か、武満は特定の演奏家がもつ楽器の音色を念頭に作曲するようになる。いや、たとえば一九六三年の《弧》ですでに、独奏ピアニストだった高橋悠治の特徴ある歩き方もヒントにしたと述べているから、エリントンの影響ばかりを強調するのは早急な判断だろう。しかし、武満が特定の演奏家を想定して作曲する機会は、たしかに増えてゆく。(184-185頁)
武満はエリントンに限りなく近づいたが、混じり合うことはなかった。言葉を交わすことさえしなかった。マイルス、サン・ラー、ゲイリー・バートンなどはほんの一瞬とはいえエリントンと顔を合わせ、そのときの感動(マイルスの場合は衝撃)を後の音楽人生に反映させていったのに、である。1回目はロックフェラー財団、2回目は武満自身によって、武満とエリントンとの出会いは阻止される。だが、これは反発・嫌悪して遠ざけたのではない。むしろその逆で、エリントン・サウンドに関する認識が深まり、憧憬する対象が明確になったからこそ、距離を置くことが出来たのだとも言える。
前回のエントリで書いたことを引いておこう。
エリントンは「オーケストレーションのマエストロ」から、「集団演奏における個の自由の表現者」となった。 もう少し詳しくいうなら、「絶妙なオーケストレーションを実現するためには、演奏者の「個の自由」が確立されていなければならない。「個の自由」が確保されていればこそ、集団表現としての音楽が可能となるのだ」という認識に至った。
武満は、エリントン的なものを直接吸収することは断念した。しかし、エリントン的なものを排除したわけではない。むしろ、そのエッセンスというか、そのオーケストレーションの本質を学び取った、と言えるだろう。
ラトルはバーミンガムで武満の《虹へ向かって、パルマ〉を初演したのを皮切りに、武満の新作〈リヴァラン》(一九八五)、〈マイ・ウェイ・オブ・ライフ〉(一九九〇)を世界初演し、録音も手がけてゆく。それだけでなく、イギリス国営放送テレビ(BBC2)で製作され、一九八六年十月に放映された、武満を追ったドキュメンタリー番組にも協力した。
この番組で監督を務めたのは、一九七〇年代からベリオ、ノーノ、シュトックハウゼンといった現代の作曲家にスポットを当てたドキュメンタリー番組を撮っているバリー・ギャヴィンで、武満の番組は本人へのインタビューをもとに作られた十三のオムニバスから構成された。〈ノヴェンバー・ステップス〉にちなみ、「Thirteen Steps around Toru Takemitsu(武満徹をめぐる十三の階梯)」と題された。
ここで武満は自らの生い立ちから、最新作の映画『乱』(後述する)での苦労話などを語る。御代田の山荘でピアノでドビュッシーを弾く姿、ある舞台で片づけが始まっているにもかかわらずデューク・エリントンをピアノで弾き続ける姿、六本木にある行きつけの杉野喜知郎のピアノ・バー「パッサテンポ」で川喜多和子、柳町光男とグラスを傾ける姿、といった作曲家の日常をとらえた貴重なドキュメントが、十三の「段(ステップ)」に分けて紹介される。武満が創作する上で重きを置いている、水、余白、庭、夢について語る「段」があれば、ラトル指揮、バーミンガム市交響楽団が〈鳥は星形の庭に降りる〉を演奏する「段」もある。取材班がイギリス人のため、武満はときどき日本語と英語を混じえて語った。そしてこのドキュメンタリーは、御代田の山荘でけん玉に興じる武満の姿を映しながら、バックに武満の弾くジャズ・ピアノで終わる。(292-293頁)
武満 plays Ellington。さて、このとき演奏したのは何だろう? 「Lotus Blossom」? 「The Single Petal of A Rose」? いや、もっとシンプルに、「A列車」や「サテン・ドール」のような一般的なエリントン・ナンバーだったような気もする。
そして、武満を愛したサイモン・ラトルもまた、エリントンをカバーする作品を創る。

デューク”最後の願い 「クラシック・エリントン」 (A列車で行こう 他)
- アーティスト: バーミンガム市交響楽団,リナ・ホーン,デューク・エリントン,ビリー・ストレイホーン,ラトル(サイモン),ヘンダーソン(ルーサー),クラーク・テリー,ボビー・ワトソン,ジェリ・アレン,ジョシュア・レッドマン,ジョー・ロバーノ
- 出版社/メーカー: EMIミュージック・ジャパン
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グルーヴ感を度外視し、オーケストレーションを聴くのなら、意外に面白い作品。
【以下、8/9追記】
なお、指揮こそサイモン・ラトルだが、編曲・オーケストレーションはエリントンの「クラシック分野での片腕」ルーサー・ヘンダーソン。ヘンダーソンはエリントンとのの生前の交流もあり、エリントン・サウンドに深い理解があった(ヘンダーソンはマーサー・エリントンとクラスメイトだったこともあり、文字通りクラシック分野でのエリントンの息子的存在だったといえる)。1曲目の「A列車」を「Drop Me off in Harlem」で始めるなど、心憎い解釈/演出を聴くことができる。また、要所要所のジャズ・プレイヤーの起用も実に効果的で、特に「エリントン役」のジェリ・アレンは立派にその任を果たし、現役「エリントニアン」クラーク・テリーはエリントン臭さを振りまく。個人的には、ルイス・ナッシュの繊細なドラムがうれしい。「企画モノ」の一言で終わらすには惜しい内容。
なお、こっちに収められてるのはこの作品の演奏と同じものなので注意。EMIのコンピレーションもので、同収録のナイジェル・ケネディの「Black, Brown and Beige」カバーも他アルバムと同じもの。

American Classics: Duke Ellington
- アーティスト: Various artists
- 出版社/メーカー: Warner Classics
- 発売日: 2010/10/11
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エリントン・サウンドは「わかるひとにはわかる」。…という言い方は排他的な響きがするので好きではないが、どのジャンルであっても(それがクラシックであっても)、エリントン・サウンドを愛する人はいる。
エリントンは、「ジャズの父」という肩書だけで聴かれ、愛されているわけではない。そのサウンドには永遠に人をひきつけて止まない「何か」があるわけで、武満にとってそれは「各人の個性が確保された上での彩色豊かなオーケストレーション」だった。おそらくラトルにとってもそうだ。
デュークからタケミツ、タケミツからラトル。「エリントン書法」の魔術は、こんなところにもかけられていたのである。