Kinda Dukish (かいんだ・でゅ~きっしゅ)

「デューク・エリントンの世界」別館。エリントンに関することしか書いてません。

ハルキさんがジャズを語る言葉は、ロラン・バルトの言葉の結晶だ。  村上春樹 talks about エリントン (3)

 

前回の続き。

若い頃にジャズ喫茶を経営していたくらいのジャズ好きの村上春樹さんは、随筆などの小説以外の分野でも音楽について語られます。

中でも、和田誠さんとコンビを組んだ『ポートレイト・イン・ジャズ』は、短いながらも核心をついた文章群で、その中でエリントンも独立項目として取り上げられていることを書きました。 

 

 

今日はその続きで、村上春樹さんがジャズについて語るときに、わたしがいつも感じる不満についてです。

村上春樹さんが音楽、特にジャズについて書かれた文章を読むたび、わたしが抱くこと。

それは…「書くテーマや、評価する感覚は多くのマニアが同意する間違いないものなのに、それを語る言葉が少なすぎるんだよなあ」 ということです。

ホント、苦労しながら若い頃にジャズ喫茶を経営してたこともあり、審美眼は素晴らしい! わたしなんかよりもずっと音楽ファンとして深いと思います。たしか『ねじまき鳥の見つけ方』だったと思いますが、アメリカを旅行する際、訪問先の中古レコード店をめぐって掘り出し物をみつけるのが趣味、みたいなことを書かれていて、100%共感したことをおぼえています。

 

 

そういう、ジャズファン、マニアとしては筋金入りなんですよね、ハルキさんは。

例えば、この『ポートレイト・イン・ジャズ』のスピンオフ? として、ハルキさんが編んだ同名のコンピレーション・アルバムがあります。

 

 

ここで選ばれた曲は実に素晴らしい。なんというか、変化球の使い方がうまいというか、いわゆる「入門盤」ではありません。いや、ジャズをあまり聴いたことがない人も十分楽しめる音楽なんですが、超有名曲とマニアックな曲が同居していて、よくわからないリストになってます。

これでうっとりしない人は「ジャズ不感症」と呼ばれても仕方ない、ビル・エヴァンスの「my Foolish Heart」があるかと思えば、スタン・ゲッツの「Move」もある。スタン・ゲッツの「Move」? わたしはこのコンピで意識しましたよ、この演奏。たしかにぶっ飛んじゃいますね。「ゲッツといったら、クール・ジャズなイメージかも知れないけど、この人の本性はこんなんだぜ」というハルキさんのつぶやきが聞こえてきます。#8ドルフィーの「out there」は、このアルバムで取り上げたことで一時的にでもドルフィー再発見の契機となったかも。

というように、なかなか味のあるコンピレーションです。

  

Move

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  • 発売日: 2010/09/02
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ハルキさんが音楽について書いた文章からは、わたしも大いに触発され、名前しか知らなかったミュージシャンを聴くきっかけになりました。あと、『うずまき猫のみつけかた』で書かれていた、アメリカの地方を訪れているときのレコード店巡りの話も大好き。音楽史や一般的な評価を踏まえて、しかし極めてプライベートな感想をダイレクトに。とても楽しかったし、なんか励まされました。

 

でも、不満もあるんです。

今日はそれについて書かせてください。

  

 

 

まず、ハルキさんが音楽について語るとき、その文章は比喩で溢れます。音楽そのものを説明すると言うよりも、「まるで~のような」という詩的な表現で語られることが多いように思うんです。「このギターソロは、100%自分の好みにピッタリの女の子を見かけたけど、遅刻しそうで急いでいる時だったので後ろ髪引かれながら通り過ぎてしまうようだ」とか、「このソロ・ピアノアルバムは、1日断食した後に食べるお粥のような滋養に満ちた演奏で、疲弊した時に聴くと体の隅々まで染みわたる」とか。

 

これが一番気になったのは、『雑文集』の「ビリー・ホリデイの話」。

 

村上春樹 雑文集 (新潮文庫)

村上春樹 雑文集 (新潮文庫)

  • 作者:村上 春樹
  • 発売日: 2015/10/28
  • メディア: 文庫
 

 

ハルキさんがジャズファンということを知った、ナイーブな若いハルキストからよく受ける質問、「ジャズってどういう音楽ですか?」に答える形の文章なのですが………これ、少しまわりくどすぎますよ。古いジャズマニアなら「ケッ、気取った文章書きやがって」なんて思うかもしれない文章です。

 

どちらかというと、わたしは「何でもいいからジャズのCDを十枚くらいじっくりと聴いて、それからもう一回出直してきなさい」というのがお互いに生産的だと考えるタイプの人間です、ここでハルキさんが書いているような。

だって、そこで何か引っかかるものがあれば、自然と興味が湧いてくるだろうし、何も感じないのであれば、ジャズという音楽はその人には合わないんですよ、たぶん。貴重な人生の時間を、合わない音楽に費やす必要はありません。

 

そういう人に比喩的な表現、寓話的にジャズという音楽を伝えようとしても、うまく伝わらないのではないでしょうか。

 

こういう比喩的な説明って、ちょっと気が利いてるし、人によっては深く共感できる説明なのかもしれませんが、わたしはあまり好きではありません。というのも、こういう表現は、音楽そのものよりも詩的な表現が前に出てしまうからです。その表現をおもしろく感じて、その音楽を聴いてみようと思う人もいるかも知れませんが、どうも詩的・文学的な表現で読者を釣っているように見えてしまうのです。

 

あ、でももちろん、逆に音楽の理論的なことしか説明しないのもどうかな、と思います。音楽をやってない人間に「ここお互いが裏コードを使っちゃって和音がぶつかっちゃったから、ピアノとベースは顔をニヤッとしてるとこなんだよ」なんて音楽理論の解説をしても、おもしろくないですよね。聞かされたほうも、「へー、そうなんですか……」としか言いようがないでしょう。

 

 

でも、もう少し音楽的な話をしてくれてもいいかなあ、とも思います。いや、なるほどなあ、と思った文章もあるんですよ。そうそう、こういう文章が読みたかったんだよ、というような。 でも、それはクラシックについてなんです。

 

 

この本はおもしろかった。

若かりし小澤征爾さんの『ボクの音楽武者修行』と同じ感覚を味わいました。

 

これ、名著です。

音楽で食べていこう、音楽を生活の一分にしようと考えている人は、ぜひ一読を。

あと、世界にイライラしている若者にも読んでほしい。

自分の敵が「世界」だと感じているのは、あなただけではありません。 

 

 

小澤征爾さんの助けを借りて(言語化されて)、音楽が解きほぐされていく。 

残念なのは、音楽の解きほぐしの深さが二人の関係性の距離と比例しているため、最初の方はおたがい様子見の会話に費やされてしまっているところです。それもライブ感があるといえばその通りなので、やっぱりこれはこれで悪くないのかも。

これはそんな奇跡的な本です。

『ボクの音楽武者修行』と並んで、ぜひ若者に読んでほしい本ですね。

特に吹奏楽をやっている小中高生が読むとおもしろいよ。保証します。

 

 

 

さて、音楽について語るハルキさんへの次の不満。

それは、ジャズについて語るときにLP偏重になること。

 

例えば、先に挙げたこのコンピレーションに寄せた、ハルキさんのライナーノーツを引いておきましょう。

 

 

 CDのライナーノーツにこんなことを書くのはいささか気がひけるのだけれど、僕はLPレコードが昔から一貫して好きだ。LPレコードのかたちが好きだし、手触りが好きだし、匂いが好きだ。その重さが好きだし、そこから出てくる音が好きだ。レコードを両手で持って、ラベルや溝のかたちやらをじっと眺めているだけで、けっこう幸福な気持ちになれる。コンパクト・ディスクを手に持ってただ眺めていても、それほど楽しくはないですよね。

 そんなわけで僕の場合、よく聴いたレコードは、手触りで――とりわけその重さで――記憶している……(以下略)

 

で、話は初めて買った『ソング・フォー・マイ・ファーザー』のLPの話や、早稲田の学生時代、寮でモンクの『セロニアス・ヒムセルフ』を持ってくる学生の話が続くのですが………おいおいハルキさん、ここでハルキさんが語っているLPの思い出って、小澤征爾さんとの対談で、小澤さんが「あまり好きじゃなかった」と言っているLPマニアの楽しみ方そのものじゃないですか! 

 

いや、少し違うかな。

小澤征爾さんとの対談で槍玉に挙げられているのはモノにこだわるスノッブな音楽ファンで、ここでハルキさんが書いているのは極私的に好きな1枚のLPについての思い出だから。でも、人によってはLPそのものではなくて、音楽そのものが大事な思い出と感じる人が多い気もしますが。「スプリングスティーンの『BORN TO RUN』はオレの青春だったよ」とか。「ニルヴァーナとともに人生を呪って、BECKで人生に希望をもてるようになったんだ」とかね。

でも、確かにCDにそこまで物質的な愛着、執着を感じることは少ないかも。

「大事なあの人とよく聴いたCDだけど、失くしちゃったら新しいの買えばいいや」みたいな。一緒に聴いた「そのCDそのもの」への執着は、LPに比べると薄いような気もします。少なくともわたしはそうです。

ああ、だから紙ジャケとかピクチャーディスクとか、初回限定盤が90年代にあんなに流行ったわけですね。物質的なそのCDの強度を高めてたわけですか。例えば、わたしにとって『Waltz For Debby』は浪人時代に買った再発の紙ジャケだし、90~00年代の渋谷系はゴツゴツしたブックレット形式のピクチャーディスク以外考えられません。『女王組曲』だって20bitの紙ジャケなんです。

 ……まあ、音楽ファンには、そういう面もある、ということなんでしょう。わたしはCD世代ですが、ここでハルキさんが述べていることは、そう考えるとよくわかりますよ。

 

おそらく、これはハルキさんの本心なんでしょう。

音楽ファン、LPファンとしても読んでて楽しいです。深く納得できます。

でも、これって音楽であることの特別性はないんですよね。例えば、これが車や腕時計についてのエピソードでも同じことが言えてしまうのではないか。

やっぱり、肝心の音楽を表現する言葉は足りていないのでは、と感じてしまうのです。

 

 

このライナーノーツ、同じく『雑文集』に「煙が目にしみたりして」という題で収録されてます。興味のある方は、ぜひご一読ください。

特に、「ビリー・ホリデイの話」を。

これ、ジャズ好きが読んで「ああ、わかるよ」というのはあるかもしれませんが、これからジャズを聴いてみたい、という人が読んで「あ~そうなんですか。よし、ジャズを聴いてみよう!」という気にはならないと思うんです。

 

村上春樹 雑文集(新潮文庫)

村上春樹 雑文集(新潮文庫)

 

 

 

 

そして、3つめ。

ハルキさん、エリントンについては圧倒的に言葉が足りてませんよ!

 

例えば、前回の記事で引いたエリントンについての断章。

 

 

この文章でわたしが気になるのは、「それ以上にあなたは何を求めるのか?」「~は喜びの一つである。」「ひとつの頂点に達する」などのクリシェ

しかし、最後に「僕らが目にするものは」と、聴覚芸術を視覚芸術に転化する技術も駆使。さすがだなあ、とは思うけど、文章を読んで、いまひとつ響いてこないんです。

ハルキさん、実はあまりエリントンは実感としてしっくりきてないんじゃないですか? 

ロックやクラシックなど、広く音楽を聴かれるハルキさんだからこそ、『ポートレイト・イン・ジャズ』では、熱狂のライブ音源の「パリコン」こと『The Great Paris Concert』や、ジャンル越境、20世紀を代表する『女王組曲』を挙げてほしかった……。

ハルキさんのエリントンへの愛、敬意はよくわかるんです。初代『ポートレイト・イン・ジャズ』の表紙はエリントンだし、ブラントン・ウェブスターのアイヴィー・アンダーソンな選曲もナイスです。

 

 

だからこそ! だからこそ、もっと掘り下げて書いてほしかったんです。

今日の記事は、「だからこそ」のコメントなんです。長くなりましたが。

 

 

さて、今日のまとめです。 

それは「ハルキさんがジャズについて語る言葉は、ロラン・バルトの「ひとは、つねに愛するものについて語りそこなう」という言葉そのものだ」ということです。

ごめんなさい、わたしにはハルキさんがジャズを語る言葉は、あまり成功しているようには思えないんです。 もしかしたらハルキさん自身もそのことについては自覚しているのかもしれません。あの比喩的、寓話的な語り方はそのあらわれなのかな、とか。

 

ハルキさんの小説では、音楽が固有名詞として、しばしばオシャレな記号として使われています。そこに惹かれる人も多いと聞きます。つまり、音楽がファションとして消費されちゃっているんですよね。

 

恥ずかしながら告白すると、わたしも『ねじまき鳥クロニクル』で、昼間、妻の不在時に何かの音楽を聞きながらパスタを茹でるところに憧れて、そのまま真似したことがありました。「やあ、ちょうどいま、君がくるまでの間、エルヴィス・コステロを聴きながらパスタを茹でていたところだよ」とかなんとか。

おそらく、ハルキさんはそういうつもりで書いたわけじゃなくて、何らかの必然性が合ってその場面でその音楽が物語に出現してきたのだと思うのですが、そのハマリ方が素晴らしすぎるんです。『海辺のカフカ』の田村カフカくんがRadioheadの『KID A』を愛聴するのはピッタリだし、公共図書館のようなところでエリントンの音楽に出会い、伝統ある音楽として敬意をもって接するところとか、すごく共感できます。 

 

ああそうか、ハルキさんはひとつひとつの音楽を細かく言葉で解説するのでなく、物語として、または物語の一部として解説することにしたのかもしれませんね。

音楽というのは、分析的に、叙事的に解説するものでなく、比喩的に、物語(またはその一部)として表現するものなのだ、と。

 

そう考えると、「ビリー・ホリデイの話」も納得です。

あと、『国境の南、太陽の西』という作品では、エリントンの「The Star-Crossed Lovers」がこの物語の一部をなすといっていいほど、とても大事な曲として使われています。ハルキさんは、この小説全体を「The Star-Crossed Lovers」と「国境の南」という曲の解説のつもりで書いたのではないでしょうか。

そう考えると、おもしろいなあ。

 

だらだらと長くなってしまったので、今日はこのあたりでやめます。

エリントンとハルキさんの話、まだまだ続きます。

 

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

  • 作者:村上 春樹
  • 発売日: 1995/10/04
  • メディア: 文庫