Kinda Dukish (かいんだ・でゅ~きっしゅ)

「デューク・エリントンの世界」別館。エリントンに関することしか書いてません。

シドニー・ベシェ「と」デューク・エリントンの肖像。

前回のエントリでは「ソプラノ侍」スティーヴ・レイシーのエリントンの影響について書いた。

だが、ソプラノ・サックスといえば、スティーヴ・レイシーよりも、ずっとエリントンに縁のある人間がいるじゃないか。

 

シドニー・ベシェ

 

このジャズ・ソプラノ・サックスの創始者である人物はエリントンと直接の交流もあり、エリントンも「ベシェの曲」を書いているほど関係は深い。3つのエピソードがあればその人物を説明することができる、と書いたのはニーチェだったか。今回は、ベシェに関する3つのエピソードを紹介しておこう。 

 

Sidney Bechet (1897, 5/14 - 1959, 0514)

f:id:Auggie:20170306050826j:plain

 

 

1.「ワシントニアンズ」に参加

 

ベシェは、エリントン・オケがまだ「ワシントニアンズ」だった頃にエリントンと共演した。つまり、ごく短い間ではあるがベシェはワシントニアンズの一員だったのだ! 

ベシェとの共演が短期間で終わり、正式にワシントニアンズの一員とならなかったのは、ベシェの奇行にエリントンが我慢できなかったから。

ベシェは自分の演奏中、自分の犬をステージに一緒に上げていた。犬の名前は「グーラ」、ジャーマンシェパード。そしてこの犬はふらふらと出歩いてよくいなくなる。演奏中、ベシェは横にグーラがいないことに気がつくと、「グーラを呼ばないと!」とばかりにグロウル奏法で犬を呼んでいたらしい。エリントンによると、ベシェのこの「コール&レスポンス」は実に自然に行われていたので観客にはわからなかったが、共演者にはバレバレだったらしい。

 

(エリントン本人の言葉では、初めてベシェを聴いたのは21年。このときに「a completely new sound」な強い印象を受け、共演を望んでいたが、実現したのは26年のニューイングランド。ただし、Baillet, Whitneyの『American Musicians』では1924年にケンタッキー・クラブで共演したともあり、証言に揺れがある。だが、いずれにしてもエリントンがベシェと共演したことがあるのは事実のようだ。)

 

American Musicians II: Seventy-Two Portraits in Jazz

American Musicians II: Seventy-Two Portraits in Jazz

 

 

 

2. エリントニアンとの交流

 

(1) オットー・ハードウィック(Otto Hardwick)

 

f:id:Auggie:20170319055721p:plain

 

どちらかというと、ベシェはエリントンよりもエリントニアンたちと仲が良かった。ベシェはソプラノのほかにクラリネットも吹いたが、同じくクラリネットも吹いたオットー・ハードウィックとも仲がよかった。オットー・ハードウィックは、クラリネットのほかにアルト、ソプラノ、バスサックスも吹くマルチリード奏者(おまけにバイオリンも弾いた。バイオリン演奏に関するレイ・ナンスとの比較は今後の課題)。この点でも二人は気が合ったのかもしれない。共演時、この2人はほぼ毎晩のように40マイル近いドライブに出かけていた。帰ってきて、エリントンがどこに行ってたのか尋ねると、「ただ散歩してただけだよ!(Just visiting!)」といつも答えたらしい。

あやしい・・・。

 

 

 

(2) バッバー・マイレー (Bubber Miley)

 

f:id:Auggie:20170319061129j:plain

 

バッバー・マイレーとは夜に激しいジャム・セッションを繰り広げたことがあるらしい。楽器こそピアノでなくリード楽器とトランペットだが、ふたりで延々とソロバトルを続けていた。何でも、どちらかがソロを取っている間、もうひとりは楽屋に引っ込んで眠らないように体をつねっていたとか。・・・何が彼らをそうさせたのか?

 

(3) ジョニー・ホッジス(Johney Hodges)

 

f:id:Auggie:20170319061427j:plain

ベシェは外交的な人物ではなかったが(グーラのエピソードからも、むしろ変人だったのでは?)、ホッジスは完全にベシェになついていた。方向性が同じだったのだろうか、ホッジスは10歳年上のベシェを音楽・楽器面で完全に信頼していた。よく外国のミュージシャンが、「ぼくの子どもの頃のギターのアイドルは◯◯だったよ」というやつである。ホッジスのこの心酔ぶりを知っていたエリントンは、晩年、この2人の再会を試みる。

 

 

3. エリントンはベシェの曲を書いた

 

 ベシェはエリントンの2歳だけ年上ということもあり、エリントン「が」影響を受けた人物としても数少ない人物でもある。結果としてエリントンはベシェをメンバーとはしなかったが、ブラックミュージックの源流として、そしてサウンドの新しさは認めていた。それはいくつものインタビューから明らか。

 

The Duke Ellington Reader

The Duke Ellington Reader

 

Sidney Bechet, the greatest of all the originators, Bechet, the symbol of jazz.(p. 337)

Of all the musicians, Bechet was to me the very epitome of jazz. He represented and executed everything that had to do with the beauty of it all, and everything he played in his whole life was original … I honestly think he was the most unique man ever to be in this music—but don't ever try and compare because when you talk about Bechet you just don't talk about anyone else." (p.369 - 370)

 

1970年、エリントンはひとまず完成した「ニューオリンズ組曲」に追加する形で、4つの肖像を書いた。ルイ・アームストロング、マヘリア・ジャクソン、ウェルマン・ブロウド、そしてシドニーベシェ。この「Portrait of Sidney Bechet」は、もちろんホッジスが吹くことを前提に書かれた。

 

New Orleans Suite

New Orleans Suite

 

 

しかし、運命とは皮肉なものである。まさにエリントンがこの曲のホッジスのソロ・パートを書いているとき、 ホッジスは心臓発作で急死してしまう。歯医者に向かう途中のこと。奇しくもベシェが亡くなったのと同じ5月のことだった。ベシェの死亡年齢は62歳、ホッジスは64歳になろうというところ。こんなところまで似てしまった。

シドニー・べシェの肖像」のホッジス・パートはノリス・ターネイが吹いている。この曲だけはホッジスに吹いてほしかった…。だが誰よりもそう思っていたのはエリントン、ホッジスだろう(いや、もしかしたらベシェかもしれない)。

 

以上からわかるように、エリントンによるベシェへの言及は意外と多い。

上記以外では何と言っても『Music Is My Mistress』。

今回のエントリも、この47-49ページを参考にしている。

 

Music Is My Mistress (Da Capo Paperback)

Music Is My Mistress (Da Capo Paperback)