Kinda Dukish (かいんだ・でゅ~きっしゅ)

「デューク・エリントンの世界」別館。エリントンに関することしか書いてません。

「歌モノ エリントン_02」瀬川昌久 presents デューク・エリントン。(06)

長かった…。瀬川昌久氏によるエリントン紹介もとうとう最終回。

分類4番目、「歌モノ エリントン」の第2回目である。

 

スウィング!presents デューク・エリントン・ベスト

スウィング!presents デューク・エリントン・ベスト

 

 

前回の続きなので、詳しい説明は省く。

今回は歌モノ11曲のうち、残りの8曲を見てみよう。

 

【関連記事(前回)】

 

4.

作品のメロディが魅力的な故に、歌詞をつけてジャズ・ボーカルのスタンダードになった多数の歌曲――エリントン楽団専属歌手によるオリジナル・ボーカル。

 

 

《Ⅳ 専属歌手によるボーカル・ナンバー》

10. チョコレート・シェイク (1941年 withアイヴィ・アンダーソン)
11. ガット・イット・バッド (1941年 withアイヴィ・アンダーソン)
12. ジャンプ・フォー・ジョイ (1941年 withアイヴィ・アンダーソン)
13. ビギニング・トゥ・シー・ザ・ライト (1944年 withジョーヤ・シェリル)
14. キッシング・バッグ (1945年 withジョーヤ・シェリル)
15. 歌を忘れよう (1945年 withジョーヤ・シェリル)
16. ザ・ワンダー・オブ・ユー (1945年 withジョーヤ・シェリル)
17. ジャスト・スクイーズ・ミー (1946年 withレイ・ナンス)
18. トランスブルーセンシー (1946年 withケイ・デイヴィス)
19. ラヴァー・マン (1946年 withマリオン・コックス)
20. セントルイス・ブルース (1946年 withマリオン・コックス)

 

 アイヴィー・アンダーソンの次はジョヤ・シェリル。アイヴィーほど長くはないが、40年代の全盛期を歌ったボーカルだ。「ジャズ・エリントン」で紹介した、輪唱バージョンの「It Don't Mean A Thing」のトップバッターでもある。

  

 

● ジョーヤ・シェリル 

f:id:Auggie:20170625073047j:plain

(Joya Sherrill, 1924, 8/20 - 2010, 6/28)
【在団期間: 1942, 44年8月~46年春】 

13. ビギニング・トゥ・シー・ザ・ライト(1944年)
I'm Beginning to See The Light
vo.ジョーヤ・シェリ
 「灯りが見えた」の邦題のあるこの曲は、ハリー・ジェイムス楽団が、キティ・カレンの唄入りでヒットしたので有名になったが、実はデュークが書いたのだった。デュークとハリー・ジェイムスとジョニー・ホッジスの共作になっているのは、恐らくジェイムスが気に入って先に吹き込んだからと思われるが、デュークもあわてて1944年12月1日スタジオに歌手ジョーヤ・シェリルを連れていって録音し、大急ぎでレコードを市場に出した、という。ジョーヤ・シェリルは、アイヴィのあと、エリントン楽団で一番多くの唄を吹き込む歌手になったが、初めてエリントン楽団と共演して歌った1942年7月には、やっとハイスクールを出たばかりの少女だった。そして44年秋から正式に専属になった。彼女は1927年8月20日ニュージャージー州ベヨンヌ生まれ。48年に独立。57年エリントン楽団の大作「ドラマ・イズ・ア・ウーマン」を歌唱、62年にベニー・グッドマン楽団とソ連に楽旅した。この曲は、AABA32小節のリズミックなバラードで、デュークのPとジュニアー・ラグリンのbのリズミカルなデュオがバンドをバウンスさせ、シェリルの17才とは思えぬ適度のねばりあるボーカルを引き立てる。この曲は、スタンダードになり、殆どのバンドと歌手がレパートリーに入れている。

 

ハリー・ジェイムスの件はジャズ史のちょっとしたトリビア。ハリー・ジェイムスのベスト盤などには必ず収録されている。後年、エリントンはピアノソロなどで弾くこの曲の出だし2小節、手癖のようなものだと思っていたが、実は「作曲者はわたしだぞ!」とアピールしていたのかもしれない。

または、エリントンが「ホッジスの乱」の際に躊躇せずファン・ティゾールとルイ・ベルソン、ウィリー・スミスを自分のバンドに呼んだりしたのはこの件が響いていたのかもしれない(ジェームス大強奪)。「I'm Beginning to See The Lightのヒットは譲ったんだから、今回は少し目をつぶってくれよ!」と。ジェイムスの側でも多少の負い目はあっただろうし。

 

ハリー・ジェイムス・イン・ハイ・ファイ

ハリー・ジェイムス・イン・ハイ・ファイ

 

 

14. キッシング・バッグ(1945年)
Kissing Bug
vo.ジョーヤ・シェリ
 ビリー・ストレイホーン、ジョーヤ・シェリル、レックス・スチュアート3人の共作になっているAABA32小節の小唄で、1945年4月の録音。ミディアム・スウィングのリズムで、シェリルが軽快に歌い、アル・シアーズ(ts)のゆさぶるようなソロ、ジミー・ハミルトン(cl)の若々しいプレイを受けて、シェリルが元気よく繰返して歌う。


15. 歌を忘れよう(1945年)
I Let A Song Go Out Of My Heart
vo.ジョーヤ・シェリ
 1938年3月にエリントン楽団が初録音した時は、ジョニー・ホッジス始め何人かのソロをフィーチャーした演奏で、デュークとホッジスの共作になっていた。ヘンリー・ネモやアーヴィング・ミルスが作詞して、ペニー・グッドマン楽団とマーサ・ティルトン唄のレコードがヒットして、多くのダンスバンドが続々吹き込んでポピュラーになった。デュークは、メドレーの中に必ずこの曲を含めていたが、45年5月に始めてシェリルの唄入りのボーカル版を出した。AABA32小節のスウィング演奏に格好の小粋な小唄で、シェリルは、ハリー・カーネイの珍しいbass-clのサブトーンのソロに導かれてしっとりと情感をこめて歌う。後半はサックス群とローレンス・ブラウンのミュードtbソロが交錯する。サラ・ヴォーンやエラ・フィッツジェラルドのエリントン・ソング・ブックを始め多くの歌手が手がけている。

 

16. ザ・ワンダー・オブ・ユー(1945年)
The Wonder Of Vou
vo.ジョーヤ・シェリ
 この曲は、ジョニー・ホッジスの作曲にドン・ジョージが詞をつけたもので、1945年11月の録音。シェリルのボーカルを、ブラウン(tb)とホッジス(as)のソロがサポートしている。

 

そしてここでレイ・ナンス。

レイ・ナンスってトランペッターでしょ? 「専属歌手」のグループでいいの?

…おいおい、無粋なことを言うなよ。ここは笑うところだぞ、瀬川先生のユーモアだ。

f:id:Auggie:20170629130730j:plain

無粋なコメントをたしなめるレイ・ナンス(Ray Nance, 1913 - 1976)。


17. ジャスト・スクイーズ・ミー(1946年)
Just Squeeze Me
vo. レイ・ナンス
 最近日本の歌手も盛んに歌っているスタンダードで、マイルス・デイビスからジョニー・ジェイムスまで幅広く愛好されてきたこの曲のオリジンは、1940年レックス・スチュアートのコンボの録音で、Pを弾いたデュークが番いたこサトル・スラフ(Subtle Slough)というインスト曲で、勿論レックスのtpプレイがフィーチャーされた。この曲をデュークは40年のミュージカル『Jump For Joy』の中で盛んに使用してポピュラーになった。デュークは、この曲を好んだので、詞をつけて、1946年7月にレイ・ナンスのボーカルで世に出したところ、予想通りボーカリストの人気曲になった。ナンスはAABA32小節のシンプルな曲を、情熱的なラブソングに歌い込み、タフト・ジョーダン(tp)とホッジス(as)のソロがムードを盛り上げる。

 

さすが瀬川先生、マイルスが「Just Squeeze Me」をカバーしてるなんて、ずいぶんマニアックなことをご存知だ。収録されてるのはこのアルバム。

 

マイルス~ザ・ニュー・マイルス・デイヴィス・クインテット

マイルス~ザ・ニュー・マイルス・デイヴィス・クインテット

 

ただし、内容は全体的にぼやけた印象の作品(ジャケット含む)である。 

 

さて、レイ・ナンスはトランペットとバイオリン、ボーカル、ダンスを担当するマルチ・プレイヤー。エリントンの大のお気に入りだった、はず。

 


そして同じくエリントンのお気に入りだったケイ・デイヴィス。48年にはレイ・ナンスとともにヨーロッパ公演も果たしたこともある。…なんともゴージャスな顔立ちだ。

 

f:id:Auggie:20170625071454j:plain

(Katherine McDonald Wimp, 1920, 12/5 - 2012, 1/27)
【在団期間: 1944年8月~1950年7月】 

 

18. トランスブルーセンシー(1946年)
Transblucency
vo.ケイ・デイヴィス
 デュークは、ボーカルのアレンジにも、数多の実験的手法をほどこした。この歌曲は、歌手のケイ・デイヴィスとバンドの器楽奏者との傑出した共同作業によって、通常のジャズ・ボーカルの域を超えたサウンドを生み出している。曲そのものは、デュークがローレンス・ブラウンと共作して1938年12月に録音した「ブルー・ライト」(Blue Light)の12小節のメロディからとっている。その時もブラウンのtbソロをフィーチャーしたが、この1946年7月の録音でも、ブラウンが活用されている。ケイ・デイヴィスという女性歌手は、クラシックの素養あるソプラノ歌手で、デュークは専ら彼女の声を生かしたボーカリーズ唱法で歌わせた。本CDの前半バラード篇の1曲目「ムード・インディゴ」でも彼女のボーカリーズが採用されているが、ここでデュークは、更に高度な音楽的技巧を使わせている。
 先ずデュークの華麗なPのアルペジオに始まり、デイヴィスとジミー・ハミルトン(cl)、ローレンス・ブラウン(ミュートtb)の3人が、対位法的に進行する。ブラウンがミュートを変えて、オスカー・ペティフォードのbだけの伴奏で、原曲「ブルー・ライト」のメロディを吹くと、デイヴィスとハミルトンも参加する。次のコーラスでは、デュークが、デイヴィスとハミルトンの両者を共にソプラノの音域で歌わせる。2人は互いにメロディーとハーモニー、上音と下音を交替するので、どちらの音か識別出来ない程の融合を見せる。ラスト・コーラスは、テナー・サックスとバリトン・サックスが「ブルー・ライト」のメロディを低くソフトに奏し、デイヴィスはその上声部を滑らかに歌っていく。コーダはデュークの華やかなカデンツァから、始めの3人が再び合奏する。英文ライナーの執筆者アンドリュー・ホムジーは、本曲の解説で「これは思わず息を呑ませてしまう音楽である。あらゆる賞讃が浴びせられても不思議のない曲である」と絶讃し、油井正-氏も、「ボーカルを器楽のように使ったケイ・デイヴィスの声からは、昔のエリントニアンのアーサー・ウェツェル(tp)を連想する」と推薦されている。

 

ケイ・デイヴィスはこのベスト盤の【Disc 1】#18 の「It Don't Mean A Thing (If Ain't Got That Swing)」のボーカリーズ3人娘のうちのひとり。この3人娘には、こんな写真が残されている。

 

f:id:Auggie:20170630040628j:plain

 

左上から時計回りでジョヤ・シェリル、マリア・エリントン、ケイ・デイヴィス。

同3人のトーテムポール・バージョンも。

 

f:id:Auggie:20170630040818j:plain

 

エリントンはこの3人のことが大好きだったに違いない。

ジョヤ・シェリルはアイヴィ・アンダーソンに次いで多くの録音をエリントンオケと残した専属歌手だし、ケイ・デイヴィスは48年にレイ・ナンスとともにヨーロッパ公演を果たしたほど。

また、マリア・エリントンは48年にナット・キング・コールと結婚し、 キングは結婚の翌年の49年、ストレイホーンの「Lush Life」を歌ってヒットさせる(ちなみに、マリアはナタリー・コールの母でもある)。

 

タイプの違う3人の女性をはべらせて、この世の春を謳歌するエリントン。

 

f:id:Auggie:20170630040912j:plain

 


19. ラヴァー・マン(1946年)
Lover Man
vo. マリオン・コックス
 以上のボーカルは全てデュークかエリントニアンズの書いた曲だったが、勿論他の作曲者のスタンダード曲も歌わせている。1946年から1947年に何曲かレコーディングしたマリオン・コックスの歌ったLover ManとSt. Louis Bluesの2曲を最後に紹介したい。マリオン・コックスについては、経歴が判らない。有名なブルース・シンガーのIda Coxと同じ姓なので或いは娘かも知れない。1946年9月吹込の「ラヴァー・マン」は、ビリー・ホリデイと緑があるだけに、1944年に創唱したビリーの唄に相当の影響を受けている。デュークは、1934年の映画『シンフォニー・イン・ブラック』の中で、ビリーを起用して歌わせているだけに、ビリーのレコードをきいてマリオンに歌わせたいと思ったのではなかろうか。ゆっくりと全面に歌い、ハロルド・ベイカー(tp)とハミルトン(cl)の短いソロがきける。

20. セントルイス・ブルース(1946年)
St. Louis Blues
vo. マリオン・コックス
 w.c.ハンディのあまりにも有名なブルースを意外に早いテンポでスウィンギーにアレンジした。ハミルトンCcl)のイントロから歌い出し、中間にシアーズ(ts)のソロを入れ、いかにもビッグ・バンド・シンガー風のボーカルになっている。日本の歌手がビッグ・バンドで歌う際の参考になるかもしれない。

 

 「歌モノ」エリントンの最後を、そしてこの2枚組ベスト盤の最後を詳細不明のマリオン・コックスで締めくくらなければならないのは残念だ。しかし、最後にこの2曲を収録した意義は大きい。エリントンは自作を中心に演奏したが、自作だけにこだわっていたわけではなかったからだ。ビートルズボブ・ディランもカバーしてるし、まるまる1枚メリー・ポピンズをカバーしたアルバムだってあるくらい。

 

エリントン'66

エリントン'66

 

「アホな放尿犯~」なビートルズ

 

エリントン'65

エリントン'65

 

祝!ノーベル文学賞受賞 ! あと、「日曜はダメよ」。

 

最初の曲はホッジスをフィーチャーした「A Spoonful of Sugar」、最後の曲はポール・ゴンザルヴェスをフィーチャーした「Supercalifragilisticexpialidocious」。ポールをフィーチャーした Supercalifragilisticexpialidocious」が聴けるなんて夢のようじゃないか。え? よく聞こえなかったって? だから、「スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス」だよ、「スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス」! 何度も言わせないでほしい。

 

以上で、瀬川昌久氏によるエリントンのベスト盤、本当におしまい。音楽的キャリアが50年に及ぶエリントンをCD2枚、40曲に収めるなんて考えがそもそも無茶なんだけど、真剣に取り組んで、しかも形のあるものにしてしまうのはさすが。

 

この2000年代に世に問う価値のあるものになっていると思う。

瀬川先生、お疲れ様でした。

また、エリントンに限らず、わたしは原則としてベスト盤はあまりオススメしないのだが、この2枚組は別。録音もいいし、エリントンのベスト盤としてオススメなのである。

 

f:id:Auggie:20170611063047j:plain

 

スウィング!presents デューク・エリントン・ベスト

スウィング!presents デューク・エリントン・ベスト