Kinda Dukish (かいんだ・でゅ~きっしゅ)

「デューク・エリントンの世界」別館。エリントンに関することしか書いてません。

『セロニアス・モンクのいた風景』の中のエリントン。

エリントンとモンク、というのは実に面白いテーマだ。

両者ともにジャズ史のビッグネームであり、それぞれの音楽も素晴らしいだけに、両者の類似点に相違点、影響関係はどれも興味深いものである。

これらの点については、すでに管理人もこんな記事を書いている。

 

 

 

しかし 、管理人はこの本の重要性を見落としていた。

改めて読み直してみると、モンクについての本として実に興味深いのは当然のこと、エリントンとの関係についても面白いことがたくさん書かれているじゃないか。なので、この本の内容を踏まえて、上記の2つの記事についても加筆することにした。それだけこの本が面白かったのである。翻訳は村上春樹。日本語としても悪いはずがない。

 

セロニアス・モンクのいた風景

セロニアス・モンクのいた風景

 

 

 

まずは「monkishなソプラノ侍」ことスティーブ・レイシーのコメント。

 

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レイシーはエリントン loverでもある、ということを以前書いたのだが、以下に引くところは、その記事を補足する内容でもある。

 

 

彼の全ての曲は歌えたし、スイングできた スティーブ・レイシー

 モンクの音楽に初めて触れたのは一九五三年、場所はニューヨーク、私がセシル・テイラーのカルテットに入ったときだった。我々がリハーサルし、演奏し、レコーディングした曲の中に「ベムシャ・スイング」があった。
 五五年にセシルは私をダウンタウンのクラブに連れて行った。モンクのカルテットを聴くためだ。アーニー・ヘンリー、ウィルバー・ウェア、シャドウ・ウィルソンというグループで、それは素晴らしい小グループだった。私は曲の良質な独創性と、四人の即興的なインタープレイと、モンクのピアノ・サウンドのスインギングなユーモアと美しさに、完膚なきまでに圧倒されてしまった。セシルと私は二人ともデューク・エリントンの音楽に夢中になっていたのだが、本当の意味で現代へと繋がれたエリントンの音楽がここにあるということで、意見の一致を見た。
 彼の演奏を初めて耳にして間もなく、私はセロニアスのレコードを買い集め、彼の作った曲のいくつかをソプラノ・サックスで演奏しようと試みた。私にとっては嬉しい驚きだったのだが、モンクの曲はその楽器に実にぴたりと合った。私はチャーリー・パーカーのソロも、ソプラノ・サックスに移し替えようとずいぶん試みたのだが、それはあまりうまくいかなかった。それらの曲はアルト・サックス向けに作られていたし、私の楽器にとって音が低すぎた。私はもともとピアノを弾いていたのだが(アート・テイタムを知るまでは!)、その後ソプラノ・サックスを知り(シドニー・ベシェを通じて)、そしてモンクの音楽にすっかりはまってしまったわけだ。それらの曲は音が高すぎず、低すぎず、易しすぎず(それがどれくらい難しいものか、当時の私にはまだ認識できていなかった!)、リズム的にも、メロディー的にも、ダイナミックス的にも、ハーモニー的にも、構造的にも、きわめて興味深い問題が満載されていた。そして当時は、セロニアス本人を別にすれば、それらの曲を演奏しようとする人は皆目いなかった。彼自身でさえ、限られた僅かな曲しか演奏していなかった。というのも、その時期の彼は人前で演奏する機会をろくに持てなかったから。
 彼の音楽を演奏すればするほど、それは私にとってますます興味深く、ますます骨の折れるものになっていった。五七年に出した私の最初のリーダーLP『ソプラノ・サックス』〔プレスティッジ〕の中で、私は私なりに編曲した「ワーク」(間違いだらけだった)を演奏した。

 

Soprano Sax

Soprano Sax

 

 

私はそのことをずいぶん誇りに思っていたのだが、自分がその曲をまったく正確に解釈していなかったことがあとになって判明した。それでもモンクは私の演奏を賞賛してくれた(その頃には私は彼と顔見知りになっていた)。モンクは自分の曲を演奏しようと試みているものがいれば、出来はどうあれ、とにかく喜んでくれたのだ。そしてまた彼は間違いというものに、とても深い興味を持っていた。誰かが間違いを犯すと、それを取り上げて、間違いによってそこに結果的に生じた「新しい展開」(デューク・エリントンの言葉)を念入りに検証した。

 その頃にはマイルズ・デイヴィスのレコード『ラウンド・ミッドナイト』(モンクが十八歳のときに作った曲だ!)が発売され、大ヒットしていた。そのようにして人々はモンクその人にだんだん興味を持つようになっていった。しかしそれでもまだ、彼の他の曲を演奏しようとするものは出てこなかった。おそらく楽譜も出版されていなかったからだろうし、そのオリジナリティーと複雑さのせいで、一般の演奏者は二の足を踏んだのだろう。
 私はプレスティッジから出す二枚目のLP『リフレクションズ』を、オール・セロニアス・モンクでいこうと決めた。そのレコードは、四〇年代後半から五〇年代前半にかけて書かれた七曲のモンク作品で構成されている。

 

Reflections: Plays Thelonious Monk

Reflections: Plays Thelonious Monk

 

 

二年かけて、入手したレコードに収められたすべてのモンクの曲(全部でだいたい三十五曲あった)を私は練習し、納得がいくまで繰り返し聴き込んだ。そしてその中から録音のために七曲を選択した。そこにはとても難しくて、そして面白いナンバーも何曲が含まれていた。たとえば「スキッピー」とか「フォー・イン・ワン」とか。マル・ウォルドロンが私のピアニストであり、その企画のパートナーだった。私と彼はそれ以来、モンクの音楽に対する共通の関心を柱にして、終生の協力関係を結ぶことになる。ドラマーにエルヴィン・ジョーンズを迎えられたことは幸運だった。彼はセロニアスの音楽を完全に理解していたから。そのLPが出たとき、モンクは心から喜んでくれた。彼がそれを機会に「アスク・ミー・ナウ」を再びとりあげるようになったことは、私の望外の歓びだった。彼はその曲をずいぶん長いあいだ弾いていなかったのだ。(53-55頁)

 

エリントン、モンク、ソプラノ・サックス、スティーブ・レイシー…! そのすべてが好物な管理人にとっては失神しそうな記事だ。われながらミーハーである。こういうところは、ジャニーズにくらくらする女子と何ら変わるところはない。

 

次は「リ・パーソン・アイ・ニュー(RE: Person I Knew)」な「アゴなしゲンさん」こと、オリン・キープニュースのコメント。

 

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セロニアスが教えてくれたこと オリン・キープニュース

 

 ソニー・ロリンズとはしばしば、あれこれ興味深い話題について論議したものだが、セロニアスが偉大な教師であるという点では、意見を同じくしていた。

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 そして我々はどちらも彼から(かなり風変わりではあるけれど)とても大事ないくつかの教訓を身に沁みて学んでいた。彼はきわめて型破りな、そしておそろしく理解しづらい教師であり、またその人生において、我々のどちらに対しても(あるいは他の誰に対しても)意図して教師たろうとしたことなど一度もなかったにもかかわらずだ。インドでしばらく生活したことのあるソニーは、彼を「グル」と呼んだ。そしてこの呼び名の方がおそらく、「教師」よりは意味あいが正確だろう。というのは、彼は指導者というよりはむしろ案内役に近かったからだ。彼はガイドとして、相手が自らの内から最も優れた資質を引き出すのを助けてくれる。その一例として、ロリンズがその音楽的ユーモアのセンスを発展させるのを、そしてまた美しさとエモーショナルな強さとを繋げ合わせてバラードを演奏する能力を伸ぱすのを、モンクがどれほど親身に手伝ってやったか、私は目にした。また一九五七年に「ファイブ・スポット」で数ヶ月間セロニアスと一緒に演奏したことで、ジョン・コルトレーンがどれほど大きく変化したかを私は知っている。彼はその体験に後押しされ、単に「いくぶん興味深い」若手のバップ・テナー奏者から、領域を押し広げる、一頭地を抜いた巨人へと姿を変えたのだ。とりわけ私は今でも深く記憶している。この素晴らしくも扱い難い、また要求の多い人物を相手にした初期の録音セッションを通じて、自分がどれほど多くのものごとを、文字通り厳しいプレッシャーのもと、きわめて短い時間のうちに学びとらなくてはならなかったかを。私が学んだのは、夥しい数の必要にして貴重な技術と姿勢であり、様々なタイプのジャズ・アーティストを適切に扱うために、頭に刻み込んでおくべきいくつかの大事な真実だった。
 私にとっての最初の問題は――これは私がプロデューサーとして将来どんな目に遭うかを予見させる、ほとんど象徴的なものだったが――モンクのレコーディングが予定されていた初日に持ち上がった。約束をすっぽかさないことで定評のある一人のミュージシャンが、なぜか姿を見せなかったのだ。ケニー・クラークとオスカー・ペティフォードはどちらも既に、新しい音楽の重鎮として認められており、私は大事な最初のアルバムのサイドマンとして、用心深くこの二人を選んでおいた。我々はミッドタウン・ニューヨークにあるリヴァーサイドの小さなオフィスに集合し、そこから一緒にハドソン河を渡って、ニュージャージーにあるルディー・ヴァン・ゲルダー(ジャズの録音技師としては第一人者だ)のスタジオに出向くことになっていた。モンクがほとんど定刻に現れたので、私はほっとした。ペティフォードはその少し前に着いていた。しかしクラークは姿を見せなかった。我々はやきもきしながら彼を待った。電話をあちこちかけまくった。しばらくしてセロニアスが、代役を呼んだらどうだろうと言い出した。皮肉なことに彼のあげた名前はフィリー・ジョー・ジョーンズだった。ジョーンズは後に、リヴァーサイドで誰より頻繁に仕事をするドラマーになるのだが、そのとき私はまだ彼の名前を耳にしたことがなかった。そして大事な最初の仕事に、名の知れた名手の代わりに無名の新人を使うのは私の歓迎するところではなかった。ヴァン・ゲルダーは録音を一日延期することを了承してくれた。ようやく居所がわかったケニーは、モンクから教わった日にちは間違いなく翌日だったと断言した。日にちや時刻や場所といったありきたりのものごとに対する、また常人には大事な意味を持つ基本的情報の伝達に対する関心の欠如を、モンクが示したのはそれが最後ではなかった。


 そのアルバムを振り返ってみると、真の問題はそれよりもっと前に始まっていたことがわかる。私と私のパートナーは、我々の獲得した新しいピアニストに関して世間に広く流布している「とてつもなくわかりにくいアーティスト」という思いこみをひっくり返すことが、自分たちにとっての最終的ゴールだと決めていた。だからまず最初に、ビバップ・ホーンと難解なオリジナル曲を抜きにしたレコードを作ることにした。エリントンの曲だけを集めてトリオで演奏するレコードを作らないかと、我々は提案した。

 

デュークは誰からも敬意を持たれている人物であり、重要な作曲家だったし、(一九四八年の記事に私も書いたように)モンクとは強い音楽的繋がりを持っていた。モンクは躊躇なくそれを承諾したが、実をいえばエリントンの音楽はろくに知らないんだと打ち明けた。セロニアス自身が演奏する曲を選ばなくてはならないと私は主張し、彼もやっといくつかの曲の楽譜を用意してくれと言ってきた。でも我々がスタジオに顔を揃えたとき、彼はピアノの前に座って、たどたどしくメロディーを弾き始めた。まるで生まれて初めてその楽譜を目にしたみたいに。彼が実際にまったくの白紙状態でその場に及んだのかどうか、私には永遠に知るべくもない。しかしそこに私を試すという意図が少なくとも部分的に含まれていたことにまず疑いの余地はない。彼はいろんなことを決定するのはまず自分だという意思表示をし、新米プロデューサーがそれに対してどんな反応を示すかを見たかったのだ(それについては若干思い当たるところがある。エリントンが録音したオリジナルの「黒と褐色の幻想」のコーダに、ショパンの「葬送行進曲」からの引用があることを、その演奏ぶりから察するに、モンクは間違いなく知っていた。そしてまた彼の「学習」は異様なくらい速かった。さっきまでたどたどしく音符を探して弾いていたはずなのに、あっという間に――とはいえ私には永遠のように感じられたはずだが――もう複雑精緻なインプロヴィゼーションをやってのけていた)。
 もしそれが本当にモンク「学校」のレッスンであったとしたら、私は辛うじてそのテストをパスできたようだ。私は冷静に我慢強くその場を切り抜けた。もちろん内心はそんな穏やかなものではなかったけれど。大事なのは意地の張り合いではなく、優れた結果を出していくことなのだと、その経験を通して私は学んだ。

(228-231頁。太字は管理人による)

 

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左から、パノニカ、キープニュース、モンク。

 

なんだって? 「実をいえばエリントンの音楽はろくに知らないんだ」って?

よく言うよ、ミスター・セロニアス。これはキープニュース自身書いてるように、モンクお得意の自己韜晦じゃないかな。しかし、このエリントン・カバーがキープニュースらの制作会社側の主導で行われたという経緯は面白い。管理人が考えるに、マイルスと同じように、モンクにとってエリントンの音楽は「敬して遠ざける」種類のものだったのではないだろうか。だから、それまでも、そしてその後も自ら進んでエリントンの曲をやろうとはしなかった。だからといって、人から薦められたのを断るほど我が強いわけでもない。掴みどころのない応答をして、いつのまにかモンキッシュな音楽を作り上げてしまう。この辺がモンクらしいところだ。おもしろいなあ。

 

関係ありませんが、オリン・キープニュースと管理人が敬愛する四方田犬彦は似てませんか? 似てませんか、そうですか。失礼しました。

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セロニアス・モンクの人生の一端となること ジョージ・ウィーン

 ウェブスター辞書は「天才(genius)」という言葉に八つの違った定義を与えている。セロニアス・モンクに相応しい定義はこういうものだ。「科学や絵画や音楽などの分野で、創造的かつオリジナルな業績を産み出す、並外れた生来の知的能力。(例)モーツァルトの天才」
 セロニアスがこの定義にあてはまることに疑問の余地はない。統合失調症のおかげで、彼は自分がどれほど巨大な創造性を有しているか、そのポテンシャルを十分には把握していなかったと私は考えている。たしかな根拠はないのだが、私はモンクの芸術家としての人生をいつも、デューク・エリントンのそれと比較してしまう。二人にはとても似通ったところがあるからだ。セロニアスはジャズの純粋な伝統の中から出てきた。彼のピアノ演奏法は、デュークの場合と同じように、一九三〇年代前半のストライド・ピアニストたちのスタイルを受け継いでいる。ジェームズ・P・ジョンソンとかウィリー・「ライオン」・スミスとかファッツ・ウォーラーとかいったピアニストたちだ。二人とも外見を大事にし、きらびやかなものを愛した。しかしデュークは自分の才能をもっと上のレベルまで運んでいった。そして様々な分野に手を伸ぼした。ブロードウェイのショーのために作曲し、数多くのポピュラー・ソングを書き、自分のバンドが交響楽団と共演するための作品をいくつも作った。モンクも疑いの余地なく、自分の書いた作品がカルテットやクィンテットなんかよりもっと大がかりなクループによって演奏されることを念頭に置いていた。ただ彼はその編曲を譜面にするために、ホール・オヴァートンのようなミュージシャンを必要とした。もしセロニアスに自分の人生をよりうまくコントロールする力があったなら、彼は他のいくつかの音楽形式を試してみることができたはずだ。私はそう確信している。しかし歳月が経過するにつれてだんだん、彼はスモール・グループというフォーマットで、自作の曲を中心に演奏することで満足するようになっていった。もし彼がもっと野心的な観点からものどとを見る機会を持てたなら、どれほどの音楽的高みに達することができただろうと、私はよく考える。
 多くの批評家やファンは、セロニアスの音楽的貢献は今あるがままで完璧だと思っているようだが。

(248-249頁太字は管理人による)

 

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これが 多くのモンク愛好家たちが考えていることなのかもしれない。

モンク自身が演奏した「ラージアンサンブル」ものについては、村田陽一氏が解説しているのでそれを引いておこう。

 

 

これを実現したミュージシャンも数多い。ふとすぐに頭に浮かぶものはこんなところ。

 

That's The Way I Feel Now - A Tribute To Thelonious Monk

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モンケストラvol.1 [日本語帯・解説付] [輸入CD]

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ハル・ウィルナーのコレは、一体いつになったら再発してくれるんだ! …まあ、誰もそんな約束はしてないだろうけど。でも、みな待ってると思います。再発してくれたら、売れると思うけどなあ。

 

モンクとエリントンの関係は、まだまだ続きそう。

とりあえず、 上記の内容をこれまでの記事に反映させることから始めます。