Kinda Dukish (かいんだ・でゅ~きっしゅ)

「デューク・エリントンの世界」別館。エリントンに関することしか書いてません。

ザヴィヌル、アメリカに渡りエリントンをみかける。(DE-JZ その7)

さて、エリントンとザヴィヌルの関係に戻りましょう。

 

ザヴィヌルのことを知るには、この本がいいです。

約20年前、ザヴィヌルの生前に出た本で、訳書もその2年後に出版されました。

訳書の出版の早さが、この本の重要性を物語っています。

 

ザヴィヌル―ウェザー・リポートを創った男

ザヴィヌル―ウェザー・リポートを創った男

 

 

ただし、これは現在絶版で入手困難。

難しい英語ではないので、ちょっと英語ができるなら、原書で読んだほうが早いかもしれません。

 

In a Silent Way: A Portrait of Joe Zawinul

In a Silent Way: A Portrait of Joe Zawinul

 

 

このリンクにあるのはハードカバーでして、こちらも現在入手困難。

しかし10年前にペーパーバッグが出まして、こちらの方がアクセスは容易でしょう。

 

 はてなの商品紹介がうまくいかないので、この形式でどうぞ。

 

では、みていきましょう。

場面はザヴィヌルがウィーンからアメリカに渡った、まさにその瞬間。

あまりエリントンとは関係ありませんが、若きザヴィヌルのフレッシュなエネルギーに満ちた描写。

この本の中のわたしが好きな場面のひとつです。

 

16 ニューヨーク


 1959年、年明け早々の一月二日、ジョーはウィーンを発った。その旅にジョーは新時代の始まりを覚えた。船がアメリカに到着したのは一月七日のことだ。

 「早朝ニューヨークに到着したが、衝撃的だったね。初日は54丁目とブロードウェイの角にあるホテルに泊まり、ブロードウェイを歩いてみた。一月のニューヨークはものすごく寒かったが、その日はよく晴れていた。午後二時ごろになるとすでに日が暮れかけてきて、街にネオンが光り始めた。両親は私のことを随分と心配しているだろう。歩いているうちにそんなことを思い、悲しくなった。今後アメリカを去ることはないと悟ったからだ。探していたものを見つけたという感じだった。「ここだ」と思った。誰ひとり知っている人間はいなかったし、親戚や友だちもいなかった。知り合いすらいなかった。たったひとりでアメリカへ渡り、「一からやるだけだ」と心に誓った。ずっとここにいることになるだろうと悟ったからこそ寂しくなったんだと思う。私はいろいろなことを学び、なんでも吸収したかった。ハーレムの文化やジャズ・クラブでの演奏、生き生きとしたものを吸い込みかった。こういうことが人生における成長過程なんだろう。すでに演奏はできたわけだからね。自分を表現するには、そのための知識がなければならない。私は探し求めることに飽きていた。答えを見出すときがきていたんだ」

 「着いて早々、タクシーの運転手と喧嘩をした。金を騙し取られそうになったんだ。だが私は騙されなかった。調子のいいスタートだったね。初日の午後、私はミュージシャン・ユニオンの事務所へ足を運び、そこでウィルバー・ウェア(セロニアス・モンクのベーシスト)に会った。その晩はウィーンの若手ミュージシャンのあこがれだった「バードランド」へ出向いた。いよいよすべてが動きだしたんだ。だけど驚いたよ。レコードや雑誌でしか知らなかった人たちが、みんなそこにいたんだ。デューク・エリントンが目の前に立っていたかと思うとマイルス・デイヴィスもいた。まったく信じられなかったね」

 「ああ、「バードランド」がどういう場所だったかなんて説明できないよ。バブス・ゴンザレスにも会った。彼はビバップスキャットで歌うことができる歌手で、スキャットの発声法をつくり出した第一人者とも言える。ルイス・ヘイズ(後にキャノンボール・アダレイのグループでジョーのバンド仲間となる)もいたよ」

 ドラマーのルイス・ヘイズは、あの有名なキャノンボール・アダレイクインテットに最後まで残ったメンバーだ。そのヘイズも、ジョーとは最初からとても気が合ったと言う。「アメリカに来た頃のジョーは、あまり英語が話せなかった。だけどそんなことは関係なかった。私にだって彼の言葉は話せないからね。何? どこから来たんだって? ウィーンか、そうか。ウィーン語は話せないな。こんな具合だ。だからそんなことは問題じゃない。ふたりでずっと一緒にウロウロしていたよ」
 この当時のジョーの英語力については、さまざまに言われている。ハンス・ソロモンによると、ジョーは軍人クラブでかなりの英語を学んだということだ。
 ニューヨークに着いた翌日、ジョーはボストン行きの列車に乗った。バークリー音楽院で、いよいよ奨学生としての生活が始まろうとしていた。

 

いいなあ、こういうさわやかで新鮮な気持ち。

わたしも幼いときは学年が変わるたび、通う学校が変わるたびにこの気持ちになりました。そして、関東から京都に移ったときは、このザヴィヌルくらい、何もかもが新鮮だったことをおぼえています。

マイルスと対等にやり合うほどのガンコ親父にもこういうときがあったのだと思うと少し安心しますね。

この微笑ましい一節を、すべてのフレッシャーズに贈ります。 

 

ちなみに、59年というと、エリントンは56年のニューポートのリバイバルの波も終わり、オケの経営やジャズ界の若手の動向も気になりだした頃。この年、「エリントン作品」という枠に留まらず、20世紀音楽史に残る名作である『女王組曲』が録音されました。

 

そう考えると、エリントンとザヴィヌルとの浅からぬ縁を感じるようで、なかなか興味深いのです。

 

 

女王組曲 (紙ジャケット仕様)

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