Kinda Dukish (かいんだ・でゅ~きっしゅ)

「デューク・エリントンの世界」別館。エリントンに関することしか書いてません。

4本マレット奏法の父、レッド・ノーヴォと「密かな」グラスノスチ。 ゲイリー・バートン自伝04

ゲイリー・バートン自伝』最終回。

 

ゲイリー・バートン自伝

ゲイリー・バートン自伝

 

 

エリントンに関することしか書かない、というこのブログの趣旨からは少し外れるが、この本の「エリントン要素」以外のことについてもメモしておこう。といっても、バートンがゲイであることに関する諸々のことはゴシップ的になるのも嫌なので割愛。バートンはゲイ・ピープルとして生きることを自ら禁じ、結婚して子どもがいるくらいなので、ゲイ・カルチャーとの関わりもなかった(2回の離婚を経てカミングアウトしてからは別)。その数少ないゲイ・ピープルとの親交としては、k.d.ラングとステファン・グラッペリが挙げられている。

 

引いておきたいのは、このステファン・グラッペリとの作品の制作中に知り合ったレッド・ノーヴォについて。記録しておくべき人物だと思うし、バートン自身、力を入れて筆を執っている箇所なのだ。

 

Red Norvo (1908-1999)

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 同じ時期(管理人注:1972年『パリのめぐり逢い』)、ステファンと同世代の人間であり、ヴィブラフォンの真のパイオニアでもある人物とついに知り合うことができた。レッド・ノーヴォその人である。ジョージ・ウェインがブッキングした僕らのヨーロッパツアー中、グォードヴィルとジャズで活躍した若かりしころを語るレッドの話に、僕はぞくぞくしながら耳を傾けたものだ。


【コラムレッド・ノーヴォ
 「ヴァイブの父」と言えばライオネル・ハンプトンの名前が即座に浮かぶが、それにはれっきとした理由がある。ハンプは19360年代初頭にヴィブラフォンを用いた初のレコーディングを行ない、40年代を迎えるころには誰もが知る有名人となった。しかし、この話にはもう一つの側面がある――ヴィブラフォンが発明される以前の20年代シロフォン奏者が確立させた、ジャズマレット奏法の歴史だ。ジョージ・ハミルトン・グリーンをはじめとする初期の有名なシロフォン奏者は、厳密に言えばジャズミュージシャンではなかった。彼らは主に、ジョージ・ガーシュウィンや革新的作曲家ゼズ・コンフリーによる初期のピアノ作品を模倣した、ラグタイム・スタイルの曲を演奏しており、即興演奏をすることはなかった(僕も子どものころにG・H・グリーンの楽譜を通信販売で買い、マリンバで演奏したものだ)。レッド・ノーヴォはマレット楽器で即興演奏をしたジャズ界初の有名ミュージシャンであり、シロフォンマリンバを用いた独創性溢れるレコーディングで名声を得たのである。
 レッドはまずピアノを学び、十代なかぱでシロフォンに乗り換えた。その後ヴォードヴィルの世界でプロとしてのキャリアを始め、ときおり自分自身のマリンバアンサンブルを率いつつ、1924年にジヨージ・ガーシュウィン作〈ラプソディー・インーブルー〉を初演したことで名高いジャズ風の商業バンド、ポール・ホワイトマン・オーケストラに加入する(ホワイトマンが大規模なホールで演奏するとき、休憩中に客席を盛り上げるのはレッドの役割だった。シロフォンを転がしながらダンスフロアを回り、スポンサーの席で立ち止まっては短い曲をソロ演奏するのである。レッドがバンド所属のシンガー、ミルドレッド・ベイリーと結婚したあと、二人は40年代初頭に離婚するまで「スウィング夫妻」の名で活動した。
 レッドは常に新境地を開拓し続け、変化の風が吹いたときも抗うことはしなかった。1933年には〈ノッキン・オン・ウッド〉と〈ホール・イン・ザ・ウォール〉という二つのヒット曲をレコーディングしているが、レーベルのオーナーと別れたあと、彼はスタジオに戻ってさらに二つの曲を録音した。そのいずれも、ジャズにおける革新的レコーディングの代表作として後世に名を残している。つまりビックス・バイダーベック作〈イン・ナ・ミスト〉のアレンジ版と、レッド自身の作品〈ダンス・オブ・ザ・オクトパス〉である(このセッションではベニー・グッドマンがベースクラリネット(ママ)を担当しているが、当時としては珍しいことだった)。いまこれらのレコーディングに耳を傾けてみても、レッドの新たな音楽を他のミュージシャンがどう捉えたか想像もできない。レッドが僕に語ったところによると、レーベルのオーナーは、まったく売れそうにない音楽などレコーディングしやがってと怒り狂い、曲そのもののリリースすら許さない勢いだったという。そしてレッドとの契約書を文字どおり破り捨てたそうだ。しかしこれらの曲は幸いにも日の目を見て、現在では本物の名曲と評価されている。
 レッドはジャズの旧時代に属しているものの、40年代に登場したビバップにも関心を抱いていた。1945年、彼は史上初となるスウィングとビパップのコラボレーションを実現させる。かの歴史的セッション〈コンゴ・ブルース〉がそれで、もっとも有名なビバップミュージシャン(チャーリー・パーカーディジー・ガレスピー)と、スウィングの代表的ミュージシャン数名(グッドマンのグループに所属していたピアニスト、テディー・ウィルソンもその一人)が一堂に会したのである。その時点でレッドはヴィブラフォン――偶然にも、僕が生まれたのと同じ1943年にシロフォンから乗り換えていた――を演奏しており、以降はこの楽器を使い続ける。また初期のレコーディングで卓越した技術を見せていたにもかかわらず、シロフォンから乗り換えると同時に四本マレット奏法からも手を引いていた。時は流れて1995年、僕のソロ演奏を見たレッドは、四本マレット奏法を捨てたのは失敗だと言った。彼がそうしたのは、40年代のヴァイブ奏者はみな二本のマレットで演奏しており、自分も時流に乗り遅れまいとしたからだそうだ。
 1940年代を通じてレッドはニューヨークを拠点に様々なグループを率いたが、50年代を迎えるころにはビッグバンドを率いるのに疲れ、同時に西海岸へ移るという考えが頭のなかを占めるようになっていた。そんなある日の夜、レッドは新人ギタリストのタル・ファーロウとニューヨークのギグに出演する。演奏に強く感銘を受けた彼はステージ後、タルにこう告げる。「なあ、いまのところ仕事はないんだが、僕はロサンゼルスに移って新しいバンドを始めようと思っている。だから、君にも来てもらいたんだ」タルはその申し出を承知し、やがて仕事が来るという口約束以上のものが何もないまま、レッドを追って西海岸へと向かったのである。
 レッドは出費を切りつめようと、ヴァイブ、ギター、ベースのトリオ編成というアイデアを考え出した。ロサンゼルスではベース奏者としてチャールズ・ミンガスを推薦される――そしてそこにこそ、レッドがミンガスをいかに復活させたかの物語が秘められている。このベース奏者は音楽業界への失望を募らせており、当時は郵便局で働く有様だった。レッドが僕に語ったところによると、ミンガスの自宅に電話がないので、彼は街中の郵便局を訪ね歩き、ミンガスが働く局を見つけて直接会わねばならなかったという。そしてようやくミンガスを見つけると、外の通りで立ち話をしながらバンド加入をオファーしたのだそうだ。ミンガスはそれを承諾、かくして音楽界への復帰と相成ったのである。
 攻撃的なポスト・バップ期の諸作品という、ミンガスがその後残した伝説に目を向けてみると、レッドやタルと同じバンドにいたことが信じ難いように思える。しかし三人がともに活動した一年半、レッド・ノーヴォ・トリオといえば当時もっともホットなバンドだった。速いテンポと並外れてタイトなアンサンブルで知られているが、レッドによると楽譜はまったく使わなかったという。つまりリハーサルのあいだにすべてのアレンジを作り上げていたわけだ。短期間のパートナーシップは三人それぞれに感銘を与えたが、とりわけミンガスとファーロウにはそれが強かった。その後三人はトリオでの成功をばねとして、自身のバンド活動に進んでゆく(やがて、レッドとタルはときおり再結成を繰り返している。僕も八〇年代に何度かその姿を見たけれど、音楽的に言えば初期のころより劣っていた)。
 レッドが残した伝説に羨望を感じないミュージシャンはいない、僕はそう考えている。彼はマレット楽器のパイオニアであるのみならず、スウィング時代のイノベーターにしてビバップヘの橋渡し役でもあり、1999年に91歳でこの世を去るまで大物ミュージシャンの大半と共演した。僕も2001年にリリースしたアルバム「フォー・ハンプ、レッド、バグス、アンド・カル」にレッドの曲をいくつか収録し、彼が遺した伝説に最大限の敬意を払ったつもりである。またギタリストのラッセル・マローンとベーシストのクリスチャン・マクブライドとともに、レッドがトリオでレコーディングした有名なレコードを再現することもした。さらに、マリンバシロフォンを借りたうえで、ピアニスト小曽根真 の伴奏で〈ダンス・オブ・ザ・オクトパス〉と〈ホール・イン・ザ・ウォール〉を可能な限り忠実に再現している。

 1970年秋、僕は数週間にわたってレッドと一緒にヨーロッパツアーを行なった。まずレッドが僕のリズムセクションを従えて何曲か演奏、次いで僕のバンドがセットを一通り演奏し、最後にレッドと僕で二台のヴァイブによるフィナーレを迎えるという、いわばありふれたプランである。最初のコンサート会場はロンドンから数時間の場所にある片田舎のリソートホテル。僕らはリハーサルを済ませていなかったので、開演時間が迫るなか、どの曲を演奏するか楽屋で話し合った。僕がレッドにフィナーレはどの曲がいいかと訊いてみると、〈ティー・フォー・ツー〉という答えが返ってきた。しかしすぐに前言を翻し、その曲は自分のパートで使いたいからということで、今度は〈バック・ホーム・アゲイン・イン・インディアナ〉の名を挙げた。楽屋にピアノがあったので、僕はハーモニーをおさらいしておくべきだと考えた。そこでピアノの前に座ってその曲を弾くと、レッドはすぐさまピアノの高音側に立って伴奏し始めるではないか(二本の指をマレットのように使って)。しかし彼が演奏しているのは〈ティー・フォー・ツー〉だ。いずれの曲も同じキーから始まるので、最初は衝突しない。それにこの二曲が調和しているように思えるものだから、両者を同時に演奏し続けられるようレッドがなんらかの形でコード進行を変えているのだろうと、僕は考えた。しかし八小節を過ぎると、〈ティー・フォー・ツー〉のコードは変わってしまう――その時点で、僕らのささやかなデュエットは突如不協和音を奏でだした。
 僕が演奏を止めると、レッドは不思議そうな表情でこう言った。「〈ティー・フォー・ツー〉を演奏してたんじゃなかったのか?」そして、僕の演奏が聞こえなかったと説明した。そう、レッドの耳はほとんど聞こえなかったのである。彼によると、ステージ上では他のミュージシャンのすぐそばに立たねばならず、聞こえるのはほぼベースの音ばかりなので、それを頼りにバンドの演奏から離れてしまうのを避けているそうだ。
 レッドが聴覚障害になつたのは、一つは感染症が原因であり、もう一つは右耳のすぐそばで銃が発射されたのが理由だった(右耳では電話のトーン音すら聞こえないという)。彼は多数のコレクションを持つ熱心な銃マニアであり、そのことは僕もたびたび聞かされた。しかしのちに、息子が父親の銃を使って自ら命を絶ったことが、彼を後悔させた。妻の死後、レッドは古くからの友人であるクラリネット奏者が住むコロラドで引退生活に入ったが、一年もすると死ぬほど退屈するようになる。結局耳を治療してなんとか数年演奏を続けるのだが、今度は心臓発作によって左腕が麻痺してしまった。その後は鬱屈を募らせる日々だったという。音楽こそが唯一の関心事なのに、もはや演奏することができない。僕はロサンゼルスを訪れる機会があれば、ときどきレッドのもとに立ち寄った。そして1992年には、〈ノッキン・オン・ウッド〉のレコーディングを終えた僕に彼から電話があり、自分の曲を演奏してくれてありがとうと謝意を伝えられた。
 19901年代に入り、レッドは発作のせいで演奏こそ無理だったものの、ヴィブラフォンの発展を祝うカリブ海のクルーズに招かれた。ある日の午後、ライオネル・ハンプトンミルト・ジャクソン、そして僕がステージに立っていたところ、デリー・ギブスがレッドを説き伏せて(本人は嫌そうだったけれど)一曲飛び入りで演奏させた。レッドは右手だけで〈ホウェン・ユーア・スマイリング〉を演奏したうえ、人柄そのものの優雅なコーラスを片手で即興演奏し、万雷の喝采を浴びたのだった。   (268-274頁)

なお、本文で語られる「4本マレット奏法」は、「クロスグリップ」や「トラディショナル・グリップ」「スタンダード・グリップ」などと呼ばれることもあるとか。さらに、バートン自身が開発した「バートン・グリップ」なる握り方もあるらしい。歴史の浅い楽器なだけに、今後も研究・革新が進むことだろう。

 

もう一つは、旧ソ連で演奏したエピソード。
こちらは最近刊行されて話題になっている『ジャズ・アンバサダーズ』とも関係してくる話だろう。長くなるが、これも引いておく。

 

ジャズ・アンバサダーズ 「アメリカ」の音楽外交史 (講談社選書メチエ)

ジャズ・アンバサダーズ 「アメリカ」の音楽外交史 (講談社選書メチエ)

 

 

僕はチック・コリアとモスクワヘ旅に出たけれど、そのときのことはいまも記憶に鮮明だ。冷戦が終結に向かっていた1982年当時、ソビエト政府がアメリカ人アーティストを招聘するようになってかなりの年月が経っていた。僕も70年代に何度か東欧諸国を訪れていて、共産主義下での生活がどのようなものか、ある程度は理解していた――とりわけハンガリーポーランドチェコスロバキアの諸都市で感じた、陰鬱かつどんよりした雰囲気は忘れられない。また1978年にプラハで催されたジャズフェスティバルに参加したとき、一時間以上にわたって僕をインタビューしたライターは、僕の音楽を表も裏も知っていた。彼は僕のキャリアに関する長文の記事を芸術雑誌に寄稿しようとしていたのだ。数年後、「ザ・ニュー・リパブリック」という雑誌を眺めていると、プラハの政治状況について書かれた記事が目にとまり、かのライターが政治犯として収監されたことを知って仰天した。その記事によれば、彼は政府に批判的な記事を書くとともに、「ジャズミュージシャン、ゲイリー・バートンの歴史を活字にした」というではないか。
 だが80年代に入ったころ、鉄のカーテンの向こうにある政府が僕に関心を寄せることはなかったけれど、モスクワに赴任したアメリカ大使がちょっとしたアイデアを考え出した。当時、アメリカ人の芸術家はソビエトのビザを取得できなかったので、外交官ビザを使い大使の個人的なゲストとして僕らを招待しようというのだ。一旦入国したら、僕らは招待客向けに大使公邸で行なわれる非公式のコンサートに出演し、現地のミュージシャンとも顔を合わせることになる。これぞ密かな「グラスノスチ(情報公開)」というわけだ。
 ジャズは世界中で広く愛されているけれど、鉄のカーテンの向こうでは特にそうだった。当局に蔑まれ妨害されていたジャズは、ソビエト式の圧政にそぐわない芸術面での自由を体現していたのだ。だからこそ、共産主義諸国に向けて毎日流される『ボイス・オブ・アメリカ・ジャズ・アワー』は極めて人気が高かった。そうしたこともあって、チック・コリアゲイリー・バートンが近々モスクワおよびレニングラードを訪れることが明らかになったとき、さまざまな波乱が生じたのである。
 入国後すぐ、僕らは大使公邸に運ばれた。そこは居室がまとまりなく広がる大邸宅で、ゲストのスペースも有り余るほどあった。アーサー・ハートマン大使と妻ドンナはいずれも愛想のよいホストであり、広報面での扱いにも長けていた。二人はナイトクラブや個人宅での集まりにおいて地元のジャズミュージシャンと顔合わせする手はずを整えてくれ、ロシア人ミュージシャンにアメリカ人アーティストと直接会話するという貴重なチャンスを与えてくれた。彼らロシア人はずっと前から僕のレコードを聴いているといい、そのうえでいくつもの質問をぶつけてきた。なかでも僕らの生活が自分たちのそれと比べてどうかという点に質問は集中した。ミュージシャンはどれだけ稼いでいるのか? コンサートの出演契約をどのようにして得ているのか? バンドメンバーを変えたくなったら? 彼らは僕らと正反対の世界に住んでいた。当局からあてがわれたミュージシャンとしか活動できず、国営のコンサート仲介業者、ゴスコンサートを通じてしか演奏できない。レコーディングも政府が管理するレコード会社、メロディア以外では不可能だ。ジャズミュージシャンとして正式に認められた27名――そう、僕らが訪問した当時の正確な数である――にはキャリアに応じた収入が保証されているものの、音楽を作るという点では自由などないに等しかった。
 僕らは大使館の舞踏室(国際法上はアメリカ領)に集まった500名ほどの招待客の前で5回ステージをこなした。地元のミュージシャンや芸術関係者を招待した夜もあれば、政府関係者と外交官のみの夜もあり、また別の夜は報道関係者やビジネスマンだけが招かれた、という具合である。またレニングラードのアメリカ領事公邸(ここもソビエトのど真ん中に浮かぶアメリカ領だ)でも演奏会が行なわれたが、当局にとって僕らの訪問は複雑だった。表向きは、アメリカ人ミュージシャンがありとあらゆる興奮のるつぼを生み出していることに懸念を表明している。しかしその一方で、かなり多数の政府高官が演奏会への招待を受け取り、アメリカのジャズとやらを聴くべく嬉々として大使公邸に出向いたのである。次々とやって来るロシア製のリムジンから招待客が「アメリカの地」へと降り立つなか、普段は姿を見せないクレムリンの大物がここまで集まるのは初めてだと、僕は職員から聞かされた。
 ニュースになるのも早かった。モスクワに駐在するNBCテレビのクルーは僕らの演奏を収録するだけでなく、夜のニュースでモスクワ訪問をレポートすべく僕らにインタビューした。しかしニューヨークに着いたテープには、僕らの訪問の様子でなく市内を行進するソビエト兵の姿が映っていたという。僕らのモスクワ訪問から情報が漏れるのを恐れた政府関係者によって、テープが途中ですり替えられたのは明らかだった。後日、僕はプラウダ紙とのインタビューの翻訳を受け取っている。その記事は、僕がアメリカ政府の人種政策に強く反対しているという内容で大半が埋め尽くされていた。もちろんインタビュアーは政府の政策なんて質問しなかったし、記事のほとんどはでっち上げだ。
 冷戦の最盛期にアメリカ大使のゲストになるということは、泡のなかで暮らすようなものだった。どこに行っても国務省の職員が僕らに同行し、妨害されずに行動できるよう気を配る。日常の食料にさえ事欠くなど、地元民にとって生活の状況は厳しかったけれど、大使館のスタッフにとってはそうでもなかった。月に一度か二度、フィンランドからトラックで食料が運ばれてくるうえ、アメリカとの直通電話があるのでいつでも母国の人だちと連絡をとれる。この回線にはワシントンDCの市外局番が割り当てられていたので、(番号さえ知っていれば)アメリカのどこからでもモスクワの大使館に直通電話をかけることができた。1981年の時点でこうしたことがなぜ可能だったかはわからないけれど、これが後々役に立つ。
 チックとのソビエト初訪問が成功を収めたこともあり、その2年後、今度は僕らカルテット全員が招待を受けた――内容としては最初の訪問とほぼ同じで、モスクワとレニングラードで演奏を行ない、地元のミュージシャンと再び交流する機会もあるという。しかしその前に、アテネブルガリア(ロシアに向かう前、そこで演奏することになっていた)を経由する旅の途中で問題が起きた。
 ソビエト発行のビザにメンバーの一人が誤って女性と記載されていて、アテネ到着の直後にそれが発覚した。この種の記載ミスがあるとソビエト入国時に問題となりかねないけれど、僕は素早く解決する方法を知っていた。大使館の担当者に直接連絡をとり、事態を知らせるのだ。当時、長々としたお役所仕事を経ずしてソビエトに国際電話をかけることは事実上不可能だった。そこで僕はギリシャに駐在する国務省の女性職員に直通電話――モスクワにありながらワシントンDCの市外局番が割り振られた回線――のことを話した。幸いにもアドレス帳に記してあったのである。最初相手は、アメリカ大使館に直接電話をかけると言っても信じてくれなかった。しかし彼女が渋々ダイヤルするとすぐつながったので、翌日僕らがモスクワ行きの便へ乗り込むときには、大使館職員によってビザの件は解決済みだった。
 ロシア人ミュージシャンとの再会は本当に心地よいひとときとなり、なかには古くからの友人とさえ思える人もいた。偉大な才能を持つロシア人が多数いることは最初の訪問で証明済みだったものの、彼らはアメリカでは考えられない困難に立ち向かわなければならない。まず楽器を維持するのが一苦労である。大半のミュージシャンはそこそこの楽器を持つているけれど、サックスのリード、ギターの弦、あるいはドラムのスティック――いずれも定期的に交換する必要がある――を入手するのが難しい。それどころか、譜面用紙といった基本的なものすら不足しているのだ。そこで二度目の訪問の直前、僕は当時繁盛していたボストンの音楽店、ヴューリッツァーから寄贈された数百ドル相当の音楽用品をスーツケースニつに詰め込んだ。そしてロシア人ミュージシャンと会うたび、何を演奏しているのか訊いたうえでスーツケースの中身を見せ、リードや弦など相手が必要としているものを提供したのである。また僕はポラロイドカメラ――当時、ソビエト国民が所有するのは禁じられていた――を持参し、ツアーマネージャーに頼んで僕と地元プレイヤーとのスナップ写真を撮ってもらった。そして一分か二分後には、僕のサインが入ったお土産用のインスタント写真を手渡せるというわけである。彼らは一様にびっくりしていた。何せそんなものは見たこともなかったのだから。
 訪問中、僕は現地の大学に案内され、そこで二人の学生によるピアノとヴァイブのデュエットを聴いた。彼らが演奏しているのは、チックと僕が前回の訪間中に披露したある難しい曲だ。僕はヴァイブ担当の学生に感銘を受けたのだが、彼がその楽器を持っていないと聞いて仰天した。彼によると、木材の切れ端でヴィブラフオンの音板に似せたものを作り、音こそ出ないけれどそれで両手の動作を練習しているという。実際のヴィブラフォンを演奏できるのは、なんとか借りることができた機会に限られるそうだ。
 この話は帰国後も僕の心に残り続けた。それからほどなく、マッサー社(僕のヴィブラフォンを作った会社)に勤める友人から、とある音楽イベントで演奏してほしいと連絡を受ける。最初は無料で引き受けるつもりだったけれど、どんな報酬を望んでいるかと訊かれたので、僕はそのチャンスを利用することにした。そして、二百二十ボルト(ロシアの一般用電圧)用に改造した新品のヴィブラフォンが欲しいと伝えたところ、相手はそれを承諾した。あとはソビエトに住むヴィブラフォン奏者、セルゲイのもとにどうやってそれを届けるかだ。当時の規制によると、そのようなことは固く禁じられていた。
 そこでモスクワの大使館職員に連絡した結果、そのヴイブラフォンを「外交郵袋」に入れてもらえることになった。そうすれば規制を受けることも通関の対象となることもなく、大使館へ直接届けられる。外交郵袋というから手紙や書類が入った革製のショルダーバッグを連想したけれど、実際にはサイズや数に制限はなく、家具や車――それにヴィプラフォンだって送れるそうだ。楽器が大使館に到着したら次はセルゲイのもとに届けねばならない。しかしアメリカ人外交官と親しく付き合った、あるいはアメリカからの贈り物を違法に受け取ったなどの理由で当局に拘束されては困る。そこで大使館は一計を案じ、楽器をまず学校に送り、届いたところで教師の一人がセルゲイに連絡、深夜にそれを取りに来させたのである(嬉しいことに、セルゲイはいまもそのヴィブラフォンを大事に所有している。最近モスクフヘ出かけたとき、僕はわざわざ自分の楽器を持っていくのでなく、それを惜りてコンサートに臨んだものだ)。
 後年(1992年)、サンクトペテルブルグを訪れたときのこと、その日スケジュールが空いていた僕は、複数のロシア人バンドが出演する地元のジャズフェスティバルを見に来るよう誘われた。そこで会場に行ってみると、出演者が楽屋にいるから会ってみてはどうかと主催者に勧められた。驚くほど流暢な英語を話す十二歳の少年以外に僕の言葉を理解できる人間がいなかったので、少年の助けを借りつつ一時間ほど彼らミュージシャンたちと交流した。やがて他の人たちがその場から離れたのを見計らい、僕はちびっ子通訳にいったい君は誰なんだと訊いてみた。出演者の息子かなんかと思い込んでいたところ、彼は名前をキリル・ゲルシュタインといい、その日早くフェスティバルでピアノを演奏したという。僕はその様子を見られなかったけれど、キリルがあとでホテルにテープを届けてくれた。彼のスタイルはキース・ジャレットを彷彿とさせ、実に見事な演奏だった――感動のあまり、僕は先頭に立って彼がアメリカヘ入国できるよう力を尽くした(バークリーに勤める他の何名かもそれに加わった)。14歳になったキリルが母親とともにボストンヘ移ったときも、僕らはバークリーの寄宿舎に家具つきの一室を用意して彼がクラスに出席できるようにした。かくしてキリルはバークリー史上最年少の学生となったのである。卒業後はクラシック音楽への強い関心が芽生え、修士号を取得すべくニューヨーク市のマンハッタン音楽学校に進んだ。その直後にはイスラエルで開催された名誉あるアルトゥール・ルービンシュタイン国際ピアノマスターコンクールで優勝、最近もクラシックのピアニストにとって最高の栄誉であるギルモア・アーティスト賞を(賞金30万ドルとともに)弱冠30歳にして受賞している。ジャズからキャリアの一歩を踏み出し、その後クラシック界のスターとなった数少ないミュージシャンの一人であるキリルは、才能に満ち溢れる一方、世界の至るところにそうした才能が転がっていることを示す実例でもあるのだ。
 僕は同世代の人間の大半がそうだったように、ベルリンの壁が倒される(1989)、あるいは共産主義が崩れ去るのを目撃するとは思ってもいなかった。そのうえ、そこに暴力が伴わなかったのは奇跡ですらある(もちろんルーマニアのような例外もあるが)。旧東側諸国で何度も演奏した僕は、陰気で寒々とした過去の街並みが、今日の賑やかな現代的都市へと変貌したことを嬉しく思う。30年前の訪問以降、僕はロシアを12回訪れ、共産主義からより開放的な社会へと移行する様をこの目で見た。そしていまなお、街を歩いていると誰かに呼び止められ、ずっと昔に手渡した古いポラロイド写真を見せられることが度々ある。(343-350頁)

 

などなど。他にも、チック・コリアキース・ジャレットらミュージシャンとの交流 や、即興演奏における意識と無意識の働かせ方など、読みどころたくさん。

中でもアストル・ピアソラとの交流は興味深い。アルゼンチンではピアソラはタンゴのミュージシャンというよりも「ピアソラ」というジャンルであり、そのピアソラが「ジャズ」をやる、というのは一種の国家的な文化事業のようなものである様子などが書かれている。

 

 『New Tango』(1986)

THE NEW TANGO

THE NEW TANGO

 

 

こうして本書を振り返ってみると、ゲイリー・バートンの活動範囲の広さを確認するとともに、自分が知っていたジャズ史(アフロ・アメリカン中心、グルーヴ重視)とは異なるジャズの歴史の切り取り方に新鮮な驚きを感じる。アカデミズムの側から、というか、白人エスタブリッシュメント層からのジャズ史といえばいいのか言葉に迷うが、この立場からもエリントンが崇拝されている、という事実が興味深かった。

このことは、やはり最近刊行された『Voice of Blue』の冒頭にある、「アメリカのメインストリーム(主流派)は昔も今もデューク・エリントン」という分析と関係しているのかもしれない。

 

VOICE OF BLUE 舞台上で繰り広げられた真実のジャズ史をたどる旅

VOICE OF BLUE 舞台上で繰り広げられた真実のジャズ史をたどる旅

 

バートンの自伝についての覚書は以上。

 

先人の智慧と経験を伝える伝統がある文化は強い。