Kinda Dukish (かいんだ・でゅ~きっしゅ)

「デューク・エリントンの世界」別館。エリントンに関することしか書いてません。

ザヴィヌルとベン・ウェブスター、その共同生活。(DE-JZ その10)

再びエリントンとザヴィヌルについて。

今回はエリントンと、というよりもエリントニアンとのエピソードです。

 

 

あ、出典はやっぱりグラサーのこの本です。

この本、本当に誰かに話したくなるエピソードばかりです。

出版関係者のみなさま、「ジャズ初心者のための~」とか、「ジャズ・入門するなら~」とかいう本を毎年量産するだけじゃなくて、このグラサーの本みたいな良書を復刻、または文庫化してください! そっちの方がロングテールで利益出るのではないでしょうか。

 

ザヴィヌル―ウェザー・リポートを創った男

ザヴィヌル―ウェザー・リポートを創った男

 

 

さて、その若き日々において、ザヴィヌルは歴史的なエリントニアンとの共同生活を送ります。 そのエリントニアンとは、ベン・ウェブスター。エリントンオケへの在団期間こそ短いものの、その音楽的な貢献を考えると、エリントン史において決して欠かすことのできないミュージシャンです。なにしろ、40-42年代の黄金時代は、「ブラントン=ウェブスター・バンド」とも呼ばれているくらいですよ。

 

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(Benjamin Francis "Ben" Webster, March 27, 1909 – September 20, 1973)
【在籍期間:'40-'43, '48-'49年】

 

「ブラントン=ウェブスター・バンド」についてはこちらを。

 

 

つまり、管理人は「ブラントン=ウェブスター・バンド」を、初期エリントンの中ではもっとも「ジャズ色」が濃い音楽と考えており、それを色濃く印象づけたスタープレーヤーの一人がベンウェブである、と。

そんなベンウェブとザヴィヌルの話に、少しだけお付き合いください。

時は63年。

ザヴィヌル、『To You with Love』なんて自分名義のアルバムを発表した後で、次の一手を模索している時期のことです。

 

To You With Love

To You With Love

 

 

…新しいアルバムは、ベン・ウェブスターと連名でリリースした『ソウルメイツ』だった。ウェブスターはジャズ界で最も有名なサックス奏者のひとりで、テナー・サックスの発展に貢献したという点では、同年代のレスター・ヤングコールマン・ホーキンスにも引けを取らないだろう。彼は1940年代のデューク・エリントンの歴史的なバンドのメンバーとして活躍し、その演奏はVSOPのブランデーのように熟していった。
 ウェブスターはつねに気ままに行動してきた人物で、ひとりの女性と落ち着いたことは一度もない。したがって、彼がジョーのような若いミュージシャンと同レヴェルでコンビを組むことになったとしても、その後彼が進んだ道を見れば、それほどおかしなことではなかった。だが、若きオーストリア人とカンザス出身のヴェテランが思いもよらないコンビを組んだことに、オリン・キープニュースでさえも驚きを隠せなかった。
 「ジョーのことは、キャノンボールのバンドにいたから知っていた。そのジョーが、ベン・ウェブスターとのアルバムの企画を私のところへもって来た。それが始まりだ。このふたりのコンビには驚いたね。しかも、すでにふたりは同じアパートで一緒に暮らしていると言うんだ。コールマン・ホーキンスもすぐ近所に住んでいて、朝遊びに来ては一日の始まりとして、まず三人で軽くジャム・セッションをしていたそうだよ。テープに録っておいてくれたらよかったのに。このプロジェクトに興味はあるかとジョーに聞かれて、『何を言うんだ。あるに決まってるじゃないか』と即答したよ。自分よりも前の時代に属していたミュージシャンたちといろいろな仕事を経験できたことが、私の人生の宝だ。ベンとはあれが唯一の仕事となった。ホーキンスとはそれまで何度か一緒にやったことがある。クラーク・テリーのときに、一度ジョニー・ホッジズと一緒にスタジオに行ったことがあるからね。こういうことが私にとっては大事なことだったんだ。ジョーのおかげで、ベン・ウェブスターも私の人生の一部になったよ。つまり、あれはジョーのアイデアから生まれたことなんだ」
 このバンドには、リズム・セクションがふたつ存在していた。キープニュースが続ける。「トランペッターのサド・ジョーンズに加え、リチャード・デイヴイスとサム・ジョーンズが交互にベーシストをつとめるというメンバー構成をとった。ふたつの形があったんだ。サムとのセッションでは基本的にジョーを使った。サムとジョーはそのとき、キャノンのバンド仲間だったからだ。リチャードのセッションではベンを使うことが多かった。ふたりのベーシストたちは能力にちがいはなかったが、アプローチがちがっていた。ジョーもベンも、自分が使っているベーシストのほうがやりやすかったようだ。それにベンはクインテットの編成でやりたがった。ドラマーは一貰してフィリー・ジョー・ジョーンズを使った。彼が誰に誘われてこのレコーディングに参加したのか、はっきり思い出せないな。私かジョーか、それともベンだったのか。覚えてないよ。それにベンとジョーがなぜ一緒に住むようになったのか、まったく想像もつかない。そういうことを訊くのはちょっと失礼だろう。『なぜあの老人と一緒に暮らしてるんだ』なんてとても言えない。いや『あの酔っ払いの老いぼれ』とでも言ったほうが正しいかな。共同生活は長技きしなかったようだけどね」
 当時、ベン・ウェブスターは禁酒していた。ジョーは一連の出来事を、ジャズ・ドキュメンタリーの制作者、ジョニー・ジェレミーにこう説明している。「ベンに会ったのは62年、ロサンゼルスでのことだった。次に会ったのは63年、ニューヨークの「バードランド」だ。その前日にニューヨークに到着したらしいんだが、まだ住む場所を決めていないと言っていた。私はキャノンボールとともに日本に行く予定で、一ヵ月留守にすることになっていたから、その間、私のセントラル・パーク・ウェストのアパートを使えばいいと言ったんだ。私が戻って来ても、しばらくの間は一緒に住んでいた。家賃も折半でね。彼の友人たちが大勢やって来たよ。ディジー・ガレスピー、ロイ・エルドリッジ、それにエリントンのバンドの連中とかね。コールマン・ホーキンスも近所に住んでいて、私たち三人はよく一緒にセッションをした。ふたりには対抗意識があったね。でもとても仲が良かった。ベンはバラードの名人だ。コールマンは、エレヴェーターに乗っているときなんかに私にメモを取らせたりしたよ。そのうちベンがいないときにやって来て、そのメモに沿ってベンのバラードを即興で演奏するんだ。一方ベンは、コールマンのように速く弾けなかったから、その練習をしていた。私はふたりにはさまれているような感じだった。ベンが私に、一緒にレコードを作ろうと話をもちかけてきたのはその頃だ」
 ジャズの歴史に名を残した人物と音楽を作ることに、ジョー(そしてキープニュース)は感動を覚えたにちがいない。そしてベンもまた、同じような気持ちを抱いていたと、ベーシストのリチャード・デイヴィスは言う。「ベンがジョーのことを気に入っていたのは、あきらかだった」
 その結果仕上がった作品を聴いてみると、ジョーの演奏はとても控え目だ。ピアニストの役割というのは、中心となる楽器をサポートするものであり、決して自己中心的にならない、型どおりの伝統をジョーが遵守した証拠だとの意見もある。だが、ジョーが極端な尊敬の念を示したという声も多く、キープニュースもそのひとりだ。「彼の演奏がていねいすぎるという意見もある。私も同感だよ。だが、彼がリーダーとして自分のプロジェクトに取り組むのはあれが初めてだった。初めてレコードを作らせてくれたのは私だと、よくジョーに言われたよ。気おくれや遠慮もあったと思う。初めてやる場合にはよくあることさ。それに、ジャズ界の大ヴェテランとともに名前を巡ねるという責任もあった。たとえジョーがまとめた企画であったとしてもね。それほど売り込みが必要だったわけでもないんだが」
 このような確実な企画に取り組むことにより、たとえ売り上げがそれほどなくても、ある程度の名声を得ることができるだろうとジョーは予測していたはずだ。だが不運な災難に見舞われ、たいした結果を残すことはできなかった。ジョーやその他のメンバーの演奏について、評論家たちの意見はさまざまだったが、それが原因ではない。キープニュースが説明を続ける。「このアルバムはリリースされていないに等しいのさ。正式に流通しなかったレコードが三枚あったんだが、そのうちの一枚ということだ。レヴュー用の見本盤はすでに発送されて、プレスも終了していたんだが、プレスエ場から発送される前に、リヴァーサイド・レコードが倒産したんだ。リヴァーサイドは経済的な事情で、1964年7月1日に経営を停止してしまった。私たちの存在が消えたことで、金の回収ができないと悟ったプレス工場が、手元にあった三枚のレコードをわずかな数だが違法に配布した。彼らはひどい価格で在庫を売りさばいたんだ。一時そうやってレコード店に並んだこともあった。
 本当の意味での初リリースは、1980年にファンタジーマイルストーンから発売された復刻盤だ(これには別テイクと、ベン・ウェブスターをフィーチャーした1957年のファンタジーのセッションからの録音も収録されている)」

 

ソウルメイツ

ソウルメイツ

 

 

 ジョーの失望も容易に理解できるだろう。若くて有望なミュージシャンが、年老いてはいるがまだ評判の高いジャズ界のスターと偶然にも出会う。そして、そのスターが一緒にアルバムを作ろうと提案する。それからさまざまな知り合いのおかげで、この若者はレコード契約を取りつける。セッションも順調に進み、テープはプレス工場へと発送された。プレスが終了したとたん、誰かがやって来てプラグを抜いてしまったのである。
 一方、飲酒という悪魔により、ジョーとベンの美しい関係にも終わりが近づいていた。何年も後になって、あるインタヴューで聞き手がジョーに「ベンはよく酒を飲んだね」と言ったことがある。そのときジョーはこう反撃した。「ベンは酒を飲めないんだ。それが問屈だったんだ。飲んでいたけど、飲んではいけなかった。アルコール中毒だからね。通りがかりにバーを見つけたかと思うと、もう酔っていたよ」
 ふたりの共同生活は、悲しい終わりを遂げることとなった。「ベンはまた酒を飲み始めた。酒を飲むと彼は手に負えなくなる。一度私の演奏を聴きに来たことがあるんだが、そのときも私のエレクトリック・ピアノの上に崩れ落ちて来たんだ。私のアパートで、彼の腹にナイフを突きつけたこともある。これがすべてを解決してくれたよ。それに彼はよく泣いていた。そうなるといつも、ラビット(ジョニー・ホッジズのあだ名)やドン・バイアスやハリー・カーネイをどれほど慕っていたかという話になる。最後は、私が彼に出て行ってほしいと頼んだ。私は結婚もしていたしね。だけど彼は聞き入れてくれなかった。彼のためにアパートも用意したんだけど、それも嫌だと言うんだ。やがては出ていったよ。コペンハーゲンに行ったそうだ。その後は一度もアメリカに戻って来ていないんじゃないかな」
 『ソウルメイツ』は、ジョーのソロ人生のスタートとしては失敗だったかもしれない。だが次のプロジェクトは、単独リーダー作であるという意味において「本物」だった。1965年にジョエル・ドーンとの共同制作で録音した『マネー・イン・ザ・ポケット』だ。ちなみにドーンとともに作ったアルバムは三枚あるが、これが一枚目になる。

 

マネー・イン・ザ・ポケット

マネー・イン・ザ・ポケット

 

 

ドーンはこう説明する。「私は売れるジャズ・レコードを探していた。(ワーク・ソング〉〈ジヤイヴ・サンバ〉〈ソング・フォー・マイ・ファーザー〉といったものだ。私はまだ駆け出しのプロデューサーで、私からジョーに相談をもちかけたんだ。キャノンのリズム・セクションは木当にすばらしかった。ジョーに才能があることはすぐにわかったし、彼も自分のやりたいことを提案してくれた」 
 『マネー・イン・ザ・ポケット』は、音楽的にみても恥ずかしくない作品だ。それほど魅力的というわけでもないが、それでもジョーにとっては大切な記念碑となっただろう。キャノンボールとのほかにも人生はあったのだ。

 

この直後の1966年、ザヴィヌルは旧友のフリードリヒ・グルダと『Music for Two Pianos』という作品をリリースし、以上の数年間を精算します。

 

MUSIC FOR TWO PIANOS

MUSIC FOR TWO PIANOS

 

 

しかし、こうしてみてみると、ここまでのザヴィヌルの音楽活動において、まったくといっていいほどエレクトリック楽器との接点がないことに驚かされます。『In A Silent Way』、そしてWRの大躍進は、電化音楽との接点がないからこそ、逆に、切り拓いた道なのかもしれませんね。

そういえば、PONTAさん(村上秀一氏)が、どこかでWRについて話していたことを思い出しました。

 

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「…ウェザー・リポートの音楽ってさ、当時はなんかよくわかんない、脈絡がなくて突拍子もない音楽って思われたけどさ、ザヴィヌルとかショーターとかのメンバーの経歴を考えれば納得できるというか、腹に落ちるんだよね」

そしてポンタさんはPONTA BOXでウェザー・リポートに捧げた作品『The One』を作り上げ、さらにThree Viewsで「Rockin'in Rhythm」をカバーします。

 

THE ONE

THE ONE

 

正確には、音楽的にはウェザー・リポート、コンセプト的にはダリ、だったような。 

 

 

3VIEWS

3VIEWS

 

冒頭は「Rockin'in Rhythm」、そして吉田美和が「The Lady Is A Tramp」をカバーしてたりします。

さて、ザヴィヌルのアコースティック時代はここまで。

次回から、いよいよエレクトリック時代、WRの話です!