Kinda Dukish (かいんだ・でゅ~きっしゅ)

「デューク・エリントンの世界」別館。エリントンに関することしか書いてません。

ダイナ・ワシントンからキャノンボール・アダレイへ(ザヴィヌル)(DE-JZ その8)

グラサーの本の続きです。

やっぱりこの本、おもしろいですよ。再販しないかなあ。

 

ザヴィヌル―ウェザー・リポートを創った男

ザヴィヌル―ウェザー・リポートを創った男

 

 

  

渡米後、ザヴィヌルは順調にミュージシャンとしてのキャリアを伸ばし、ダイナ・ワシントンのバンドのピアニストとなります。バークリー音大の奨学生だったにもかかわらず、数週間でメイナード・ファーガソンバンドに加わってバークリーを自主的に退学。決断の早さが素晴らしい。凡人にはできないことです。

さて、この時期も後のキャリアに劣らず、充実していた毎日だったようです。

 

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ダイナ・ワシントン(Dinah Washington, 1924-63)


 ジョーはアメリカン・ドリームの成功を充分に満喫していた。だからこそ、少々嫌なことがあってもそれを思い悩むことはなかったのだろう。ニューヨークに戻れば、つねに大勢のミュージシャンに囲まれていた。
 ピアニストのレイ・ブライアントは、今ではジャズ界の秘宝といわれている。流行の気まぐれに惑わされず、自分の得意とする音楽にこだわってきたミュージシャンだ。彼が得意とするのはブルースとスウィングで、つまり「アート・テイタムの影響を受けていないオスカー・ピーターソン」と表現できるだろう。ジョーが渡米した頃、彼もまたやり手のピアニストとして名を広めつつあった。

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レイ・ブライアントRay Bryant, 1931-2011)


 「私たちは偶然、アッパー・ウェスト・サイドの同じ建物に住んでいた。たしか1960年頃のことで、私がカーメン・マクレエと一緒にやっていたときだ。その数年前、私はフィラデルフィアから出て来たばかりだった。ジョーと一緒に行動することはそれはどなかったけれど、偶然顔を合わせることはたまにあった。私も彼も忙しかったからね」
 「そこはアパート群になっていて、南北は97丁目から100丁目まで、東西はセントラル・パーク・ウェストからアムステルダム街まで建物が立ち並び、目の前にはセントラル・パークがあった。とてもいいところだったよ。パーク・ウェスト・ヴィレッジという大きなアパート群で、レイ・チャールズデューク・エリントンといった大物ミュージシャンも大勢住んでいた。たしか20階建ての建物が6棟か7棟あったと思う。マックス・ローチ、チャーリー・シェイヴァーズ、スペックス・パウエル、ホレス・シルヴァー、ビル・ヘンダーソン、ピアニストのジミー・ジョーンズなんかもいたね。ミリアム・マケバも、ヒュー・マセケラと一緒に初めてアメリカに来た頃、そこに住んでいた。コールマン・ホーキンスにアーニー・ロイヤル、そしてジョー・ザヴィヌル。もちろんジョーもこういった人たちと会ったんだ。誰もがお互いのことを知っていたね。彼はすぐにみんなと親しくなって、溶け込んでいた。私より先に引っ越してしまったがね」
 このような生活はまるでおとぎ話のように映る。それに心を奪われる人も多いだろう。そして、そうあるべきなのかもしれない。しかし、辛い時期もあったとレイ・ブライアントは言う。「あの当時、ジャズは今ほどビッグなビジネスではなかった。大衆に受け入れられていたわけではない。そのうえ金を稼ぐことができなかった。ようやくジャズに少しずつ金が発生し始めた時代だ。ミュージシャンたちは互いにくっついて、いつも一緒にいた。いわゆる”同じ釜の飯を食っていた”わけだからね。今でこそやっと羽を広げることができる。あの頃の仲間の何人かは、とても有名になった。ハービー・ハンコックもそのひとりだ。彼は私たちよりも少しだけ若かったが、あの仲間のひとりだ。ホレス・シルヴァーも成功したし、私でさえ成功したよ。今が私の人生で最高のときだ。つまり生き残った私たちは、比較的いい立場にいる。だけど当時は質素な暮らしだった。辛抱してわずかな恵みで我慢していた。今とは別世界だね。こういう諺がある。”同病相憐れむ”ってね。今ではあらゆる面でよくなった。ああいう雰囲気は存在しないね」
 では「社交面」はどうだったのか。当時のミュージシャンたちにとっては、自分の腕に磨きをかけることのほうが大切だったようだ。「女だって? まあ、いつだって大勢の女性が側にいたよ。遊ぶ時間はたっぷりあったからね。だが音楽や自分を磨くことのほうが大事だった。まず第一に私たちはミュージシャンであり、学ぶことはたくさんあった。練習をするのが当然さ。家にだって楽器を用意していたしね。アパートにピアノを置いていたのさ。私もジョーも一台ずつもっていたよ。誰かが演奏を始めると、そこへ行ってジャム・セッションをすることもあった。そんな場所へ顔を出したら、必ず一緒にやろうって誘われたね」


 ジョーは仲間たちの才能に衝撃を受けた。「ニューヨークヘやって来た頃は、会う人会う人すべてピアニストだった。ウィントン・ケリーシダー・ウォルトンソニー・クラーク、その他にも何百といたね。ウォルター・ビショップ、ウォルター・デイヴィス・ジュニア、ランディ・ウェストン、フィニアス・ニューボーン、ホビー・ティモンズ、ビル・エヴァンスなんかも私の友人だった。こういった連中を毎日通りで見かけた。しかも誰もが確かな腕をもっていて、似たような演奏をする奴はひとりとしていなかった。特にトミー・フラナガンとは親しくしていたね」
 「ハリー・”スウィーツ”・エディソンとジョー・ウィリアムズに会ったこともある。ちょうどカウント・ベイシーのバンドを抜け、ふたりがバンドを作ったばかりの頃だ。そのバンドにトミー・フラナガンも入ったが、彼はすぐに抜けてしまった。だからバード[チャーリー・パーカーの愛称]やマイルス、ディジー・ガレスピーなんかとやったことのあるベーシストを入れた。なんていう名前だったかな。度忘れしちゃったよ。すばらしいベーシスト。そうだ、トミー・ポッターだ。すばらしい人だったよ。ドラムはクラレンス・ジョンソンだった。サックスはジミー・フォード。彼のことはメイナードとやっていた頃から知っていた。それにスウィーツ・エディソンとジョー・ウィリアムズだ。本当にすごいバンドだよ。私もバンドに誘われたんだ。私の演奏を気に入ってくれていたらしい。「ダイナとやるのも飽きてきたところだ。いつも同じブルースばかりだからね」というのが私の返事だった。ダイナは本当にすばらしかったし、スタンダードになった曲もいくつかある。だが、歌手とやるのはだいたい二年が限界なんだ。もう飽きていた。歌手の伴奏は、ミュージシャンにとってはある意味でやりがいのあることだけれど、私にしてみればジャズを演奏することとはちがった。私はジャズをやりたかった。刺激的でパワフルで純粋なジャズだ。それになんといっても、私はそのためにアメリカに来たんだ。だから私はダイナのもとを去り、ジョー・ウィリアムズとスウィーツ・エディソンとともに1ヵ月のツアーに出た」
 「すると今度は何か抵抗のできない力に押されたような感じで、運命的な転機が訪れた。一ヵ月のツアーが終わり、ステーション・ワゴンで家に帰ることになっていた。荷物を上に積んで、一台のステーション・ワゴンで移動していたんだ。あのステーション・ワゴンで移動するのは、本当に辛かった。すると車が壊れた。当時、私にはニューヨークにガールフレンドがいて、真剣な付き合いをしていた。だから「ジョー・ウィリアムズと一緒に飛行機で帰る」と言い、そのまま西四丁目の小さなアパートに帰ったんだ。ニューヨークで二度目に住んだ場所から三分ほど離れたアパートだった。おもしろいもんだね。私がアパートに入って行くと、電話が鳴り始めた。それがキャノンボール・アダレイだったんだ。しかもノルウェイからの国際電話だ。「ぜひバンドに入ってくれないか」と言われ、その瞬間私の心は決まった。その後九年半、あのバンドの世話になった。最高の九年半だったよ」

 

 

 いやあ、おもしろいなあ。

ジャズファンのミーハー根性を刺激する一節です。

ここで引いた少し前のところで、ダイナ・ワシントンとのエピソードもあります。ザヴィヌルのことは評価していましたが、だいぶ勝気な女性だったというか、トラブル・メーカーだったようです。

ニューヨーク生活の描写もいいですね、特に出てくる名前がピアニストであるところ。やはり、こういうところにザヴィヌルの音楽、特にピアノへの情熱を感じます。「会う人会う人すべてピアニストだった」というのは、ザヴィヌルの心の構え方がそうさせたんだと思いますよ。

 

そしていよいよ、キャノンボールとの出会いへ。

やだなあ、大好きなんですよ、あのバンドのライブ盤。

「この1枚に救われた」っていう人、結構いると思うんですよ。

 

Mercy, Mercy, Mercy (Live)

Mercy, Mercy, Mercy (Live)

  

 

今回は、あまりエリントンと関係ありませんでしたね。

この時期、エリントンもパーク・ウェスト・ヴィレッジに一緒に住んでたよ、

くらいです。