Kinda Dukish (かいんだ・でゅ~きっしゅ)

「デューク・エリントンの世界」別館。エリントンに関することしか書いてません。

「My People」をめぐる解釈。 エリントンとザヴィヌル(その5)

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一連の tas1014さんによるコメントのまとめ。

というか再掲です。今回のコメントはひとつのピークと言えるでしょう。

解説も必要ない達意の文章なので、言及されている資料のリンクを示す程度に留めます。

 

 

確かに、エリントンとザヴィヌルの関係を考察するには、接点の一つであるところのキーワード「my people」をタイトルに掲げたエリントンの組曲「My People」について十分に調べてみる必要がありますね。私はそこをスルーした上で、両者の関わりを安易に理解したつもりになっていたようでお恥ずかしい限りです。そして何よりも、エリントンの「My People」を自分の耳でよく聴き込むことをせず、音楽作品としての内容をよく理解しないままこの組曲に言及してしまったことも反省しなくてはなりません。そこで遅まきながら自分なりにこの作品のことを調べてみることとしました。
 文献資料については、私の場合図書館で借りたものとネット上で無料で閲覧できたものに限られるのですが、「A列車で行こう: デューク・エリントン自伝」(「Music is My Mistress」の邦訳)(p. 196-197, 228, 292等)、「デューク・エリントン / 柴田浩一」(愛育社, 2008)(p.255-257)、「Duke Ellington's America / Harvey G. Cohen」(U of Chicago Pr., 2010)(第6章「My People」) そして「Duke Ellington's Music for the Theatre / John Franceschina」(McFarland & Co., 2001)(第6章「”What Color Is Virtue?”」)を読んでみました。あと、残念ながら読めなかったのですが、「Duke's Diary: Part 2: the Life of Duke Ellington, 1950-1974 / Ken Vail」(Scarecrow Pr., 2002)は日にち単位でエリントンの行動を追跡調査するには非常に参考となる書物だと思いました。

 

A列車で行こう―デューク・エリントン自伝

A列車で行こう―デューク・エリントン自伝

 
デューク・エリントン

デューク・エリントン

 
Duke Ellington's America [並行輸入品]

Duke Ellington's America [並行輸入品]

 
Duke's Diary Part 2: The Life of Duke Ellington 1950-1974 [並行輸入品]

Duke's Diary Part 2: The Life of Duke Ellington 1950-1974 [並行輸入品]

 

 

   録音された作品については、1992年発売のRed Baron盤のCD「Duke Ellington's My People」(1964年1月リリースのContact盤LP「Duke Ellington's My People with Joya Sherrill」と同内容)をYouTubeで、2012年発売のStoryville盤CD「Duke Ellington's My People: The Complete Show」(Red Baron盤等それまでのアルバムには未収録だった約10曲を追加収録)をAmazon Prime Musicで、いずれもオンラインで聞いてみました。

 

My People

My People

 
My People

My People

 

 

 この程度の作業に取り掛かり始めただけでも「My People」の背景に広がっている世界というか問題の途方もない大きさが感じられ、こりゃこのテーマで本格的に調査研究し出したら幾ら時間とお金があっても足りないなと思いましたし、米国史に関する知識や楽理の素養のない自分のような者には到底無理な企てであることが分かりました。願わくは、どなたか適任の方にこの「My People」の研究に真っ向から取り組んで貰い、一冊の分厚い書物を書き上げて頂きたいものであります。

 

...同感です。

もはやエリントンはジャズ・ミュージシャンの一人というよりもアメリカ史の一人として、研究の対象に値するのではないでしょうか。

 

 とはいえ、自分でもほんの少しですが調べ始めて分かったことや気になったことがあります。おそらくエリントンの音楽に長く親しんでこられた方々には既知の事柄も多いことと思いますが、それらを私のコメントも一部含め以下メモ的に書き留めさせてください。コメント欄のこうした利用が不適切でしたらすみません。

 

 ・リンカーン大統領による奴隷解放宣言100周年を記念した唯一の国家的祝賀行事「The Century of Negro Progress Exposition」という博覧会がシカゴのマコーミックセンターで1963年8月16日〜9月2日に開催された。

 

 ・同博覧会でのイベントの一つとして、マコーミックセンター内のアリー・クラウン・シアターで舞踊、歌唱(ソロとコーラス)、タップダンス、音楽からなるエリントンのミュージカル的作品「My People」が、会期中平日は午後3時と7時半の2回、土日祝日は午後2時、4時、7時半の3回上演された。

 

 ・予算不足からエリントンは自分のオケを出演させられなかった。代わりに、オケに在団したことのあるメンバー16人からなるバンドを臨時に作って「My People」の上演に宛て、その間自分のオケは巡業を続けられるようにした。

 

 ・この16人編成のバンドでは、ジミー・ジョーンズがピアノを、ストレイホーンがチェレスタと指揮を担当した。ただし、8月28日はストレイホーンがワシントン大行進に参加したため、ジミー・ジョーンズが指揮も行った。なお、文献によっては、ジミー・ジョーンズが最初からピアノと指揮を担当したこととなっている。

 

 ・【不明な点1】エリントンは会期中一度も「My People」の演奏に参加しなかったのか?  エリントンは演奏を含め舞台全体を監修する立場にあったことと、自分が不在の時のためにピアノと指揮は他のメンバーに任せていたことを考えると、それは大いにありうる。スタジオ録音の作品中の「My People (Soap Box)」では、黒人がいかに米国の社会に寄与してきたかを熱っぽく訴えるエリントンの凄みのある演説(最後の方はラップ風になり、次の曲を召喚する。)が聴けるが、柴田浩一氏によると舞台ではこの部分をタップ・ダンサーのバニー・ブリッグスが代行していたそうだ。余人をもって代え難い役のような気がするが、そのソースとなる文献は何だろう?「自伝」の中では「わたしは期間中全部はシカゴにいれなくて、ジミーがわたしの役目をはたしてくれた。」とあるが、シカゴにいてショーに参加したか、会場でショーを見守っていた日もあったのではなかろうか?

 

 ・【不明な点2】会期中の8月20、21、27日に、同じ市内にあるユニバーサル・スタジオGoogleマップによるとアリー・クラウン・シアターから車で約15分)で、エリントンも参加してのオリジナル・キャストによるショーの録音が行われた。ただし、録音ではJuan Amalbertによるコンガの演奏が加わった。また、「A Duke Ellington Panorama」(http://www.depanorama.net/)によると、録音セッションでブッキングされたバンド名は「Billy Strayhorn & His Orchestra」となっており、ピアノはストレイホーン、指揮と「演説」はエリントンが行い、ジミー・ジョーンズは不参加だったようである。ところで、この録音があった当日はショーは休演したのだろうか?それともスタジオと劇場を往復しながら上演は続けたのだろうか?エリントンはスタジオだけにとどまり劇場には行かなかったのだろうか?ちなみに録音が行われた日はいずれも平日である。

 

 ・音楽については、「Come Sunday」、「Montage」、「The Blues Ain't」が「Black, Brown & Beige」からの、Storyville盤で聴ける「Strange Feeling」は「香水組曲」からの流用であり、「Strange Feeling」はストレイホーンの歌曲(私は「Lush Life」を連想しました。)なので、「自伝」でエリントンが「わたしは『マイ・ピープル』のために曲をつくり、歌詞を書き、オーケストレーションをやり、それを指揮した。金の管理以外すべてをやったわけだ。」と言っているのには少し嘘があるように思われる。

 

 ・過半数は書き下ろしの曲であり、その中では「Ain't But the One」、「Will You Be There? and 99%」、「David Danced」(バニー・ブリッグスのタップ・ダンス付き)が翌々年に発表された「A Concert of Sacred Music」(「Sacred Concert」第1部)に使用された。なお、「Sacred Concert」第1部は「Black, Brown & Beige」からも「Come Sunday」と「Montage」を流用している。ただし、組曲中に過去の作品を再利用するというパターンは、この「Sacred Concert」第1部まででそれ以降は見られない。

 

 ・書き下ろしの曲は、歌曲(「演説」も含め)に関しては、博覧会のテーマ「Negro Progress」とそれに相反する当時の米国社会の実態についての思いが反映されたかのように、エリントンにしてはメッセージ性が強い。すなわち、これまでの黒人の米国社会への貢献の大きさ(「演説」)、肌の色の違いの無意味さ(「What Color Is Virtue?」、「Purple People」)、自分の両親及び祖先への愛と感謝(「Heritage」)などが歌われている。しかし、中でも飛び抜けて政治色の強いのが、黒人霊歌ジェリコの戦い」をベースに作ったキング牧師賛歌「King Fit The Battle Of Alabam」である。この曲の中でエリントンはアラバマ州バーミングハムでデモ隊に向けて警察犬を放ったコナー署長の非道な行いを名指しで挙げて皮肉っている。ショーのリハーサルが行われた8月12日にキング牧師とエリントンは初めて会い、リハーサルの場でエリントンは「King Fit The Battle …」をキング牧師に聞かせて彼を大いに感動させた。博覧会場での公式な会見の場では、キング牧師からエリントンに音楽により米国社会に貢献したことを褒め称える盾が授与され、お返しにエリントンからキング牧師に「King Fit The Battle …」の自筆原稿が贈られた。

 

 ・Storyville盤で追加された曲の一つ「Purple People」は「Monologue (Pretty And The Wolf)」の系譜に連なる寓話的な小品であり、管楽のみの演奏バージョンとの組み合わせでこれがどのように上演されたのか非常に興味深い。

 

 以上、私にとっては新しい発見ばかりでしたが、謎な部分も多く、あらためて自らの非力を感じました。それから、この作品に対するエリントンの「本気度」については、エリントンを聴き始めて日の浅いこともあり、結局のところ私には分からずじまいでした。
 さて、色々な見方があるとは思いますが、エリントンの厖大な作品群の中で1920年代に端を発し1940年代以降に重きを増してくる長尺物、中でも組曲形式の諸作品の中に、「Black, Brown & Beige」、「Deep South Suite」、「Drum Is A Woman」等、「アフリカ系アメリカ人の歴史」をテーマとした系列があって、「My People」は完成した作品としてはその流れの中で最後尾に位置し、テーマに関するメッセージ性が非常に強く、個々の曲のスタイルはかなり多様性に富むという特徴をもった作品と言えると思います。スコット・ヤナウによるAllmusicでのレビューは星三つですが、私は「Sacred Concert」と同じ位にもっと高く評価されてよい作品だと思いました。
 それから、管理人さんの仰るとおり、ワシントン大行進とこの作品の上演が時期的に被ったのは決して偶然ではなく、奴隷解放宣言100周年を機にそれぞれ同時期に進められていたということもありますし、エリントンがこのショーをキング牧師に捧げたということもあるので、必然的にこの時期に両者は最も接近したのだと思います。ただし、Cohenによれば、エリントンは運動の手段としての「大行進」については非常に懐疑的であったようですね。エリントンと公民権運動との関わりについては、Cohenの他にも多くの文献で触れられていそうで、本格的に調べるのは断念しました。

 

 組曲「My People」を聴いてみて分かったのはエリントンの曲中に出てくる「my people」とは「black people」に他ならないということなのですが、先日ご紹介した1964年のカナダのCBCラジオのインタビューで、エリントンがインタビュアーの質問に狼狽して、しばらくの間ピアノを弾いたり難癖を付けたりした後、「my peopleとは(カテゴライズされる以前の)the peopleのことなんだよ。」というような意味の回答をした辺り、政治的と見做されうる意思の表明に関して神経質なまでに慎重になる彼の姿勢が窺われますが、これは、1951年11月の或る新聞インタビューでの彼の「We ain’t ready yet」という言葉が一人歩きしてしまった結果、黒人社会から非難を浴び釈明に追われることとなったという苦い経験があるからこそなのかもしれません。ところで、1964年のCBCインタビューですが、誰の意向によるものなのか、エリントンが狼狽してインタビュアーに苦言を呈している部分は実際には編集カットされて放送されたそうです。おそらく、ザヴィヌルが聞いたのは編集後のインタビューだと思われますので、「my people」の意味については(故意にかもしれませんが)エリントンの言葉どおりに受け取って(「黒人」という意味付けは捨象して)自分のアルバムのタイトルに使用したのでしょう。ザビヌルの育ったウィーンが様々な人種や民族の集まる都市であったことを考えるとそれも自然な成り行きのように思えます。

 

…素晴らしすぎます、tas1014さん。もう、わたしが付け加えることは何もありませんよ。ただ、結局エリントンの「本気度」はわからずじまいで、エリントンと公民権運動についても、まだまだ研究の余地あり、といったところでしょうか(強い関心があって深いところでコミットしているものの、注意深く慎重にその痕跡を消す、あるいは曖昧なものに留めようと試みており、それがある程度成功しているため、追跡するのが難しい、というのが現時点でのわたしの解釈です)。

そして、「My People」という言葉について、ザヴィヌルとエリントンの間の複雑な「ねじれ」も明らかになりました。

すなわち、エリントンは、ある種のミスティフィカシオンというかダブルミーニングというか、「アフロ・アメリカン」という意味を込めて使用している「My People」をもっと広い意味での「people」として解釈させようという misleading への強い意志があったこと。そして、ザヴィヌルは「My People」をアフロ・アメリカンにとどまらない全世界の人間へ、という意味を込めて使用していますが、これはエリントンの真意とは異なるけれども、それがザヴィヌルの「戦略」だったのか、聴いたのが編集後インタビューである当時のメディアの限界によるものなのか、はわかりません。つまり、エリントンの misleading をどこまで理解していたのかは不明であること。

エリントンとザヴィヌルの『My People』については、これが明らかになっただけでもよしとすべきなのではないでしょうか。というか、両者とも亡くなっている以上、これ以上は解釈の問題になると思います。

 

 tas1014さん、本当にありがとうございました。

わたしが今でも考え続けているのは、tas1014さんも述べられている、「Black, Brown & Beige」、「Deep South Suite」、「Drum Is A Woman」等の「アフリカ系アメリカ人の歴史」の最後尾としての『My People』の意義なのです。

「宗教」と「政治(あるいは民族)」という観点で考えた場合、「Come Sunday」という曲を考えると明らかなように、初期のエリントンにおいてはこの2つの要素は融合しています。その融合こそが概念としても音楽としても美しいわけで、この融合はマヘリア・ジャクソンを経由し、その後ゴスペルという形で結実します。

わたしが注目したいのは、Sacred Concert 以降、この2つの要素が分離していったことです。宗教分野はSacred Concertで、民族分野は「アフロ・アメリカン」……であることを意図的に曖昧にした、第三世界の音楽としてワールドミュージックで。

…さて、この乖離をどのように解釈すればよいのか。

これについては考えがまとまっていません。

誤解を恐れずに現時点でのわたしの印象を述べると、前者は希釈された形で外交的な形で利用され、後者は音楽の新たな回路を開きつつあり、後年の数十年にわたって若者に霊感を与え続けている、といったところでしょうか。もしかしたら、宗教分野をハーモニー、後者をブルース、という形でエリントンは考えていたのかもしれません。真意がどうであるにせよ、後期~晩年のエリントンは、初期にみられたような、この両者を融合する音楽を志向していませんでした。それぞれを別物として考えていたように思われます。

そう考えると、Sacred Concert が、エリントンが若い頃から強く憧れていたイギリスで開催されたことも腑に落ちますし、若者がこぞって『極東組曲(Far-East Suite)』や『Afro-Eurasian Eclipse』に飛びつく理由もわかります。

 

Duke Ellington's Far East Suite

Duke Ellington's Far East Suite

 
Afro Eurasian Eclipse

Afro Eurasian Eclipse

 

 

では、どちらにも分類されない『女王組曲』はど考えればいいのでしょうか?

Ellington Suites

Ellington Suites

 

 

……などなど、これらは今後の宿題にさせてください。

tas1014さん、本当にありがとうございました。