Kinda Dukish (かいんだ・でゅ~きっしゅ)

「デューク・エリントンの世界」別館。エリントンに関することしか書いてません。

野心作にして問題作、『A Drum Is A Woman』から見えてくるもの。(野口久光評のその先へ)

いつもの野口久光氏のエリントン紹介文、今回はこれ。

 

A Drum Is a Woman

A Drum Is a Woman

 

 

ドラム・イズ・ア・ウーマン     デューク・エリントン楽団 (Columbia)


 常に野心的な仕事をしてきたジャズ界の巨匠エリントンがまたしても新しいアイディアと意欲を示すLPを吹き込んだ。エリントンは三十年以上前にジャズをダンス・ミュージック以上のものにしようと努力し、信じ、実践していた。ダンス・バンド・リーダーとしての成功に満足せず、音詩(ママ)的な作品も書き、コンサートのための曲も作った。オペラも作曲した。「ドラム・イズ・ア・ウーマン」はドラマティックなストーリーをもった音楽である。歌もあり、ナレーションもある。ここでジャズの歴史、黒人の歴史、そしてエリントンの自伝が音楽的に語られる。幻想的な音詩でもあり、シュールな美しさももっている。
 アフリカから奴隷として西インド諸島に連れて来られた黒人のカリビー・ジョーの愛用しているドラムが或る日、女となる。ジョーはジャングルに留まりたいと願うが、女はマダム・ザージとして知られアメリカ、いや世界の都会に進出する……といったストーリーがエリントン自身によって語られ、歌によって物語られる。すべてが象徴的で、幻想的である。しかもジャズの、黒人の歴史が生々しく音によって表現されていく。原始的なカリプソ・リズムからニューオリンズ・ジャズ、モダンに至るジャズのスタイルがドラマティックに示される。五部から成るこの作品はエリントンと長年のよき協力者であるビリー・ストレイホーンの合作で、作曲、作詞、編曲に当たったものである。
 まずエリントンのピアノ伴奏でマーガレット・タインズが主題曲を歌い、次の「リズム・パン・ティ・ダム」はジャズのリズムがアフリカからの奴隷船とともにアメリカに渡る。カリビー・ジョーの登場、そしてドラムが自ら女に変身するくだり。トラック3「ドラムでほかに何か出来る?」はカリプソ・リズムでオジー・ベイリーのヴォーカルで第一部は終る。
 第二部は「ニューオリンズ」と題され、ジミー・ハミルトンの瞑想的なソロからエリントンの解説で、「ズールーの王様」が紹介される。マルディ・グラの行列、歓声、女になったドラム「マダム・ザージ」、そしてトランペットの名人バディ・ボールデンが登場する(レイ・ナンスのトランペット)。次いでクラーク・テリーが往年のレックス・スチュアート張りの力強いトーンで「ヘイ・バディ・ボールデン」を演奏、これにジョーヤ・シェリルのヴォーカルが加わり、トラック6の「カリビー・ジョーコンゴ広場」に入る。前牛はシェリルの唄、後半はオーケストラと男声、そしてエリントンの説明でエキゾティックな山場をつくる。
 第二面に入って第三部となり「ザージ」はエリントンのピアノとオーケストラをバックにジョニー・ホッジスの美しいアルト・サックスがスポットされ、タインスの唄にからむ、このホッジスはまことにすばらしい。次の「君は知った方がいい」〈ユー・べ夕ー・ノウ・イット〉はベイリーの歌、オケは強烈にスウィングする。第四部は再びシェリルの「カリビー・ジョー」から「マダム・ザージ」に入る。ここはキャンディドのコンガ・ドラム・ソロ、解説のバックのクラーク・テリーのソロが再び光る。「マダム・ザージ」(ジャズ)は世外に進出し、「空飛ぶ円盤のバレエ」演奏になる。ここに再びホッジスのアルトが燦然と輝き、ワルツ・テンポからリズムは一旦消え、ハープのアルペジオを経てオーケストラのメカニックな演奏に盛り上げていく。アンサンブルに対立させてサム・ウッドヤードのドラムスが派手なプレイを挿入する。ここでいよいよ第五部に入り、最初の「カリビー・ジョー」ではカリビー・ジョーとマダム・ザージの再会、シェリルのヴォーカルによる「ルンバップ」ではモダンなオーケストレーションが見られる。終章「フィナーレ」は再びタインズ、ベイリーの唄そしてゴージャスなオーケストレーションで曲を結んでいる。
 テスト盤で解説原文もなしできいただけでは充分このエリントンの野心作についてそのよさをお伝えできないが、これは1957年度で最も問題になるジャズLPであることは確かだ。演奏も録音も最上級のものである。
                  (『レコード藝術』57年9月号)

 

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野口久光ベストジャズ(1)

野口久光ベストジャズ(1)

 

 

この作品、野口氏が言うように「野心作」であることは確かだ。問題なのはこれが「成功作」であるかどうかなのだが…どうなのだろう?

 

参考までに、トラックリストと録音のクレジットを挙げておこう。

 

【Part I】
1.A Drum Is a Woman
2.Rhythm Pum Te Dum
3.What Else Can You Do with a Drum?

 

【Part II】
4.New Orleans
5.Hey, Buddy Bolden
6.Carribee Joe
7.Congo Square

 

【Part III】
8.A Drum Is a Woman, Part 2
9.You Better Know It
10.Madam Zajj
11.Ballet of the Flying Saucers
12.Zajj's Dream

 

【Part IV】
13.Rhumbop
14.Carribee Joe, Part 2
15.Finale

 

16.Pomegranate (CD再発盤)

1956年9/17, (1, 6, 7, 13), 24(2, 3), 25(5, 8, 10, 14), 28(4, 12),   10/23(11), 12/6 (9, 15)

56年の9月、ということはあのニューポートのライブから2ヶ月後だ。

ライブのあの成功は単なる「一発もの」ではない。

その証明がこの作品である。こんな大作の作曲・録音、ライブが成功したからといってほいほいできるわけがない。「55年体制」の完成により、オケの態勢が充実していたからこそ可能となったのだ、この壮大な音楽劇は。

sites.google.com


ただ、どうなのだろう?

もう一度繰り返すが、「野心作」であるのは確かだが、「成功作」なのだろうか?

一般的には、多くの人々の耳に届いた大成功作品とされている。何しろ、この作品はアメリカのテレビ史上、初めて「全キャストがアフロ・アメリカンで構成される」生放送の初の「ジャズ活劇」なのだ('57, 5/8)。テレビ史を離れ、アメリカのアフロ・アメリカン史の上でも、この作品は最重要作品だ(アメリカ黒人のステレオタイプ的な表象、の観点からも検討が必要かもしれない)。

 

だが、音楽的には……必ずしも成功しているとはいえない、と管理人は考えている。

この作品は、その大部分がストレイホーンの筆によるものと考えるべきだが、しばしば「フランス印象派的」と称されるストレイホーンの感性は、アフリカ的なものとの相性はよくなかったのではないか。「アフリカ」で「ドラム」なのに、ポリリズム的な要素はほとんど見られない。むしろ、まるであえて封印しているかのようにポリリズムに対しては禁欲的なのだ。Womanの官能性はうっすらと漂うものの、Drum の衝動は薄い。

確かに、アメリカン・クラーベ的なもの、まで要求するのは酷かもしれない(いや、エリントンになら期待してもおかしくないか)。しかし、ブレイキーの一連のリズム洪水作品のような狂気すら、全く感じられないのである。

 

Coup De Tete

Coup De Tete

 

 キップ・ハンラハンのこれは1979-1981。

 

オージー・イン・リズム Vol.1

オージー・イン・リズム Vol.1

 
オージー・イン・リズム Vol.2

オージー・イン・リズム Vol.2

 

 ブレイキーのこのLP 2枚組はなんと1957年5月7日の録音。『ドラム~』の生放送日の前日だ!

 

全体を通じて披露されるエリントン自身によるナレーションは渋く、candid の参加も話題になった。だが、それでも音楽的強度は高くない。

この作品は、エリントン/ストレイホーンの隠れた弱点である「リズムの弱さ」があらわれてしまっている。教科書的に音楽を「メロディ」「ハーモニー」「リズム」の3つの複合と考えるなら、エリントンサウンドの弱点は「リズム」にある。あまりにも豊饒な前2要素 に比べ、エリントンのリズム的な要素には創造性は感じられない。エリントンのリズムは貧しいのだ。

これをソニー・グリーアのせいにするのは簡単だが、むしろストレイホーンのクラシック音楽の教養によるものといえるのかもしれない。独学で音楽を学んだエリントンと違い、ストレイホーンはクラシック音楽を体系的に学んだ。ハーモニー面であれほどの冒険をしているエリントン/ストレイホーンが、リズム面では基本的には安全運転なのはそのせいでは。

 

と、ここまで書いておきながら、すぐに誤解のないように記しておくが、エリントンはリズムは弱い(創造的ではない)かもしれないがグルーヴはケタ外れだ。よくわからないタイミングで入れてくるバッキングはオケをドライヴさせまくるし、アドリブソロ時のメロディのないソロ・フレーズなんてグルーヴを聴いているようなもんだ。「リズム」と「グルーヴ」の問題は説明が必要かもしれない。これはまたの機会に。

 

そういえば、『A Drum Is A Woman』については、以前このブログで村上玲のポエムを紹介した。

 

 

村上玲氏のこれはポエム日記みたいなものなのでよくわからないところも多いのだが、要するに「エリントンの『A Drum Is A Woman』は物足りない」ということが言いたいらしい。そうだとするなら、同意できる意見ではある。

 

あと、「空飛ぶ円盤」だとか「宇宙」というのはエリントンを読み解く上では隠れキーワードでもある。

ソ連スプートニクの打ち上げ成功に触発され、興奮状態となったエリントンは57年暮れに「The Race for Space」なる文章を書き、翌年の4月にスモールグループでの演奏を録音した。

 

The Cosmic Scene: Duke Ellington's Spacemen (with Clark Terry & Paul Gonsalves) [Bonus Track Version]

The Cosmic Scene: Duke Ellington's Spacemen (with Clark Terry & Paul Gonsalves) [Bonus Track Version]

 

 

「宇宙」という言葉に隠された意味は「人種」。人種を超えた次元の話として「世界」を超えて「宇宙」にまで行ってしまうのはアフロ・アメリカン文化の特徴なわけだが(P-Funkとか)、エリントンは「世界」に踏みとどまる。63年に発表した『My People』はこの流れにある作品だ。 

My People

My People

 

 

元ジャケはこれ。

Duke Ellington's My People

Duke Ellington's My People

 

 

未読だが、このあたりのことはこの本に書かれてないかな、なんて期待している。

ジャズ・アンバサダーズ 「アメリカ」の音楽外交史 (講談社選書メチエ)

ジャズ・アンバサダーズ 「アメリカ」の音楽外交史 (講談社選書メチエ)

 

 

 

まとめておこう。

『A Drum Is A Woman』という作品は、作品それ自体の完成度が重要なのではない。むしろ、この作品からエリントン・ミュージック/ワールドについてずるずると考えることができるところが重要。野心作にして問題作なのである。

 

最後になるけど、この作品で一番素晴らしいのはタイトルとジャケット。

楽器の擬人化、楽器を恋人と見立てたりするアナロジーはよくあるが、普通は弦楽器とか管楽器が多いのでは。「ドラムは女性である」という断定がスゴイ。これ、ドラムのメーカーとかコピーにすればいいのに。って、もうしてたりして。

 

A Drum Is A Woman、Music Is My Mistress。

  

Music Is My Mistress (Da Capo Paperback)

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