Kinda Dukish (かいんだ・でゅ~きっしゅ)

「デューク・エリントンの世界」別館。エリントンに関することしか書いてません。

ペペ・トルメント・アスカラール『戦前と戦後』における「A列車」。菊地成孔氏のインタビュー抜粋。

そういえば、ペペ・トルメント・アスカラールの『戦前と戦後』、最後に「A列車」の引用があったような。

そう思い、『Jazz JAPAN』(2014年4月、vol.44)を読み返す。 

JAZZ JAPAN (ジャズジャパン) Vol.44

JAZZ JAPAN (ジャズジャパン) Vol.44

 

 

特集が「菊地成孔の音楽錬金術」なのは、ペペ・トルメント・アスカラールの『戦前と戦後』、『夜の歴史』の発売を記念したため。今回読み返したのもそれが理由である。

戦前と戦後

戦前と戦後

 

 

『夜の歴史』 はこのオケのベスト盤。

 

雑誌冒頭に菊地成孔氏のインタビューがある。本作品に関係するところだけ引いておく。 

  

今の日本が戦前なのか戦後なのか? というシンプルな問いが最初にあった


 ブエノスアイレスの旅から戻り、『南米のエリザベス・テイラー』の録音をきっかけに生まれたぺぺ・トルメント・アスカラールの活動もいよいよ今年で9年目に突入する。『野生の思考』『記憶喪失学』『ニューヨーク・ヘルソニック・バレエ』と一作ごとに異なるアプローチをみせた菊地、今回の新アルバム『戦前と戦後』は、全11曲中の10曲が自身のヴォーカルという異色の「ソングプック」仕立てになっている。


菊地(以下、K):今までのベペ・トルメント・アスカラールは、僕がサックスを吹くインストルメンタル・ユニットでしたが、今回は戦前の歌謡スタイルからフル・アコースティックのヒップホップまで、全曲ヴォーカルもしくはラップです。来年でこのオルケスタも1O年目、アルバムもだいぶ出揃って来た。だいたい7~8年活動してアルバムが5~6枚出ているバンドつて、自己模倣というか同じ事の繰り返しになることが多い。今回はソニー・ミュージックの中で立ち上げた自分のレーベルTABOOの第1弾ということもあり、なるべくフレッシュなものにしたかった。ソングブックの形にしたのは僕自身も含めてペペ・トルメント・アスカラールのリフレッシュメントという感じです。

 今回菊地がカバーした楽曲は戦前の昭和歌謡ディック・ミネから80年代歌謡の薬師丸ひろ子、さらにはアメリカンクラーベ主幹のキップ・ハンラハンに及び、キップと彼の娘はテキスト・リーディングにも参加している。他にソプラノ歌手の林正子、12歳のフランス人少女(アマチュア)、日本のアンダーグランド・ヒップホップ界のトップチーム「SIMI LAB」からMCのOMSB、 DyyPRIDE、覆面フィメール・ラッパーICIなどがフィーチャーされている。まさに戦前歌謡のスタイルからフル・アコースティックのヒップホップまで、過去の諸作を超えた変幻自在な音響空間が出現する。特に際立つのはアルバムに通奏している戦前歌謡のスタイル、ブエノスアイレスの深夜のタングリアや映画館の暗がりと共に、ぺぺ・トルメント・アスカラールの原風景がそこに見えるようだ。

K:日本に輸入されたジャズの歴史を考えると、スイング・ジャズとか、多くのジャズ・ソングというのは、焼け跡が復興する歌みたいに捉えられがちですね。要するに進駐軍が入って来た後の現象として。しかし、戦前の日本は今回のアルバムで僕がカバーしたディック・ミネさんみたいなジャズ・シンガーが活躍していた。そもそも戦前の日本人はジャズが苦手で、黒人のようなリズム感がなかったなんていう説は、戦後のジャズ喫茶で育った団塊世代の人たちのねつ造なんですね。瀬川昌久先生が尽力されている戦前の日本のジャズ研究を見ても、ディック・ミネさんに限らず、日本のジャズは相当高い水準にあった。戦前の日本には立派なダンスホールがあったわけで、タンゴやマンボも素晴らしかったわけです。

 それにしても『戦前と戦後』という意表をついたアルバム・タイトル、歌~詩~言葉~メッセージ…、単なるリフレッシュメントという言葉では片付けられない奥の深さを感じさせる。

 K:多くのミュージシャンが戦争をまたいで生きている。ディック・ミネさんもそうですが、デューク・エリントンなんて世界大恐慌の前に“コットンクラプ"に入って、第二次大戦を経過してヴェトナム戦争まで見ている。戦争が無い時代、戦争に向かいつつある時代、戦争の真只中、戦争が終わり復興に向かう時代、それを全部見ている音楽家がいる。ジミ・ヘンドリックスもヴェトナム戦争を抜きに彼の存在は語れない、何らかの形で戦争イメージが音楽に張り付いているんですね。
 今の日本が戦前なのか戦後なのか? というとてもシンプルな問いが最初にあって、それをどうやって音楽で表現しようかなと思ったとき、戦前~戦中~戦後、いろんな時代の音楽スタイルを同じオルケスタで、同じ歌い手が歌うということで、それでどう聞こえるかという興味があった。そこで、タイトルを「戦前と戦後」ということにしました。

 戦後、しばらく経ってから私たちが耳にしたスローガン「もはや戦後ではない」を指して菊地は「今はもはや戦後でもない」と言いきった。戦後がいつの間にか戦前にとってかわる歴史の流れ。しかし、薬師丸ひろ子に代表される80年代歌謡が日本の街中に溢れた頃、誰にも戦争のリアリティは無かったと菊地は語る。

K:終戦後、しばらくは復興の時代が続き、やがて”もはや戦後ではない"といスローガンが掲げられ、バブル絶頂の80年代には日本で戦争など絶対に起こらないし、これからも永久に無いだろう…というふうに皆が信じていた。その裏ではフォークランド紛争があり、世界の何処かで戦争が起きたのですが、自国の戦争からは最も遠いところにいたわけですね。この時代の歌が今回カバーした薬師丸ひろ子さんの「WOMAN」です。ところが、あれから30年くらい経ってみると、状況は激しく変わっている。特に若い人たちの間で、戦争のリアリティが高まっているように感じます。

 タイトル曲の「戦前と戦後」の舞台は雨上がりの銀座、いかにも戦前の歌謡スタイルを踏襲した曲想に乗って「あの空がずっと見て来たこと、街はいつだって戦後、戦前、戦後…」というフレーズが登場する。詩を捨て熱帯に向けて出帆したアルチュール・ランボーとは逆に、溢れるほどの言葉を携えて、菊地は熱帯の航海からひとまず2014年の東京に帰還した。今こそ、彼のような音楽家が最も必要とされる時代に。

K:前作の:ニューヨーク・ヘルソニック・バレエムから僕の中では人類学的なテイストは取り払い、いわば“脱熱帯"になった。誰にでも亡命願望はあります。青山をパリだと思っている人、新宿をニューヨークだと思っている人、大久保を明洞だと思っている人もいる。都市の同―性が崩れ、此処にはいたくないと思っている人が沢山いる。僕は音楽を作るときに精神的な亡命が起こってしまうのだけど、今回はそれが起きてない。今回は紛れも無く東京、ここは熱帯ではない。この感覚もひとつのリフレッシュメントかもしれません。
(インタビュー・文 白柳龍一)

日本の戦前のジャズの歴史についてのコメントが興味深い。戦前のジャズ(に限らず芸能全般)は、最近になって研究が活発になっている分野であり、インタビュー中の「捏造」の検証も含め、今後の研究成果が楽しみな分野だ。このブログに関係することといえばつまりSP時代のエリントンであり、具体的には野口久光氏の世代の受容・紹介を調べていきたい。

 さて、頁をめくっていくと、本作品のバックグラウンドに及ぶ解説から、サロン・ミュージックのパイオニア、杉井幸一の紹介まで遡る毛利眞人の文章に遭遇。そうそう、これを読みたかったんだよ。

 

 ディック・ミネが昭和11年(1936)5月8日に吹き込んだ「たゞひとゝき」(Empire of Jazz テイチクエンタテインメント TECH37270 /1 に収録)が菊地の新たな歌詞(最後にディック・ミネ版の歌詞も登場する)とヴォーカルでカバーされているのも目を惹く。原曲はドイツ映画「マズルカ(1935)でポーラ・ネグリが歌った「Nur Eine Stunde」。オリジナルのヨーロピアンな暗鬱さが、まず杉原泰蔵の垢抜けたアレンジとディックのスタイリッシュなバタくささで拭い去られているのだが、これを菊池はさらに明朗で時代感の浮遊する不思議なナンバーに仕立てた。“この歌をどこかで聴いたことがありませんか? そう、この歌は過去や未来にほかの誰かが作った歌”と菊地が歌うとおり間奏からデューク・エリントン楽団のテーマ曲「A列車で行こう(Take the A-train)」(1939)が絡み、さらに時空を超えて原田真二の「てぃーんずぶるーす」(1977)につながる。この二つのワクワクするメロディがメイン・コーラスと奇妙な調和をみせながら敷行進行する。つまり、このナンバーでは時間軸と空間軸が交錯した三つの物語が時を同じくしているのだ。(85-86頁、斜体部分は引用者挿入)

菊地氏の「この歌は過去や未来にほかの誰かが作った歌」という言葉が興味深い。ただ、毛利眞人氏は「三つの物語」としているが、物語はもう少し重層的なのではないか。

菊地氏がディック・ミネに扮して当時に歌っているとすると、「たゞひとゝき」録音時が「現在」で、そこからの「過去」としてドイツの『マヅルカ』のポーラ・ネグリによる「Nur Eine Stunde」。そしてアメリカのエリントンの「A列車」と日本の原田真二の「てぃーんずぶるーす」が未来。この時点で過去と現在と未来が交錯しているわけだが、当然のことながら歌っている菊地氏は2014年の日本にいるわけで、以上を鳥瞰した、「…という状況を演じているオレ」という視点も存在する。さらに、この曲は『戦前と戦後』の最後の曲という「鳥瞰するポジション」に置かれており、さらにさらに、この『戦前と戦後』という作品自体が『夜の歴史』というペペ・トルメント・アスカラールの10年間を「鳥瞰する」作品と同時に発表された、ということも興味深い。

 

では、「A列車」が召喚されたことの意味は?

「A列車」は、エリントンと出会って間もないストレイホーンがよって39年に書かれた曲であることを考えると、「戦前」を強調する意味で菊地氏は引いてきたのだろう。「A列車」は戦前の大ヒット曲だ。ディック・ミネポジションからは「戦前」だけど「未来」の曲、2014年からみると「戦前」で「過去」の曲。「戦後」の曲である「てぃーんずぶるーす」との対比である。 

 また、「A列車」にこだわらず、インタビューにもあったように「戦争をまたいだ音楽家」として、エリントンの名前を出したかったのかもしれない。

 

それにしても菊地氏はエリントンをよく召喚するが、その中身はストレイホーンだ。今回も「A列車」が引かれてるのを聴いて思わず微笑んでしまった。

いっそのことストレイホーン集でもいいから、ダブ・セプテットでやってくれないだろうか。管理人は、菊地氏によるエリントン解釈を dCprG かダブ・セプテットの演奏で聴きたいのである。