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Kinda Dukish (かいんだ・でゅ~きっしゅ)

「デューク・エリントンの世界」別館。エリントンに関することしか書いてません。

野口久光氏によるエリントン追悼文。

野口久光氏は、瀬川昌久先生の一回り上の世代であり、エリントンを同時代の音楽として聴いてきた人間である。瀬川昌久先生と並ぶエリントン紹介者として、日本のエリントン受容史を考える上で重要な存在だ(ちなみに、瀬川昌久先生はマイルスと同じ世代)。

 

この追悼文は、メンバーとの関係についてなど、ややきれいごとに聞こえるところもあるが、これが野口氏が感じた率直な印象なのだろう。

 

この追悼文によると、5度目の来日が企画されていたらしい。 

 

ジャズ・ダンディズム JAZZ Dandyism 野口久光 ジャズの黄金時代

ジャズ・ダンディズム JAZZ Dandyism 野口久光 ジャズの黄金時代

 

 

 

 デューク・エリントンを偲んで

 

 七十五歳の誕生日を、療養中のニュー・ヨーク(原文ママ)の病院で迎えたばかりのデューク・エリントンが、現地時間の五月二十四日未明、永遠の眠りについた。

 不死身ともおもえたジャズ界の巨人の一日も早い全快を祈っていた世界のジャズメン、ファンの願いは遂にかなえられなかった。

 思えば、半世紀にわたる不休に近い演奏活動、その演奏を通じて行ってきたエリントン作品の発表、ジャズ発達の中核、指針ともなってきたエリントン・ミュージック、エリントンその人の存在の大きさは計り知れないものがあった。

 三年前にルイ・アームストロングを失い、いままた巨星エリントンを失ったのはアメリカといわず世界のジャズ界、楽壇にとって大きな損失であり、エリントン・ミュージックを愛し、その業績、人柄に尊敬の念を抱く人たちに深い悲しみを与えていることであろう。

 四たびこの巨人を日本に迎え、幾たびとなくエリントン・ミュージックのナマをきき、親しくその偉大な人柄に接した人間のひとりとして深い悲しみを感じないではいられない。ついさきごろ、エリントン快方に向かうのニュースもあったばかりであり、神原さん(これまで四度ともエリントンを招聘した神原音楽事務所主)から来年早々五度目の招聘を内定したという話もきいていたやさきだっただけに、突然の悲報にショックをうけたのだった。

 しかし、私たちは、この偉大な音楽家の死を悼み、心から冥福を祈りつつも、死の瞬間から歴史の人となったエリントンの数多い遺作にジャズ史、音楽史的な重さを改めて感じるのである。

 

 晩年のエリントンは、次々に多くのすぐれたメンバーの退団、引退によって最盛期のすばらしさを懐しむファンの声もしばしば耳にしなければならなかったが、とくに一九六七年、文字通りエリントンの分身、片腕だった名アレンジャー、ビリー・ストレイホーンを失い、一九七〇年にはメンバー中の至宝ジョニー・ホッジスに先立たれエリントンは両腕をなくしたような痛手を受けた。

 それでもなお、エリントンの創作意欲はいささかの衰えもみせず、組曲「ブラーヴァ・トーゴトーゴ・ブラーヴァ」のような力作を送り出し、レコーディングがされているかどうかはわかっていないが、ソヴィエトの印象に基づく新しい組曲を書き、ことしに入って三作目の「セイクリッド・ミュージック」組曲を完成、その初演が間もなく行われようとしていたようである。

 晩年は健康上やその他の理由で楽団を去った人たちも何人かいたが、その人たちやエリントンの親しい友人たちのなかにはエリントンその人の健康を気使って演奏スケジュールの緩和や休養をすすめる声もあったが、エリントンはその声に従おうとしなかった。

 エリントンにとって演奏することが生き甲斐であり、生きる悦びだったのであろう。オーケストラの質的な変化、低下を彼エリントンが感じていなかったはずはないが、彼の作曲意欲はいささかの衰えもみせなかったのである。

 

 日本でも楽屋ではぐったりとして「疲れたよ」という言葉を洩らしていたが、ひとたび舞台に立つと別人のようにさっそうと振るまい、力強くピアノを叩き、オーケストラをリードして行く。そしてその熱っぽい演奏の合い間にプレイヤーたちに師匠と愛弟子、父と子同志(原文ママ)のようなやさしい視線が交わされる。

 エリントンにとって彼のオーケストラは、彼の名言そのままに彼の楽器そのものだった。オーケストラを持たないエリントンの存在は考えられないことだったし、エリントンのいないオーケストラは同じオーケストラであってもエリントンのオーケストラでなくなるといってよいほどエリントンと彼のオーケストラとの関係は他のオーケストラに例のない密接な結びつきがあった。

 れっきとしたエリントニアンといわれるくらい長期に在団した人たちのなかで、一時的に独立して自分のバンドをもって活躍した人も何人かいるか、エリントン楽団に加わっていた時期を上まわる評判を得た人はいなかった。その人たちは必ずといってよほど(原文ママ)しばらくすると古巣にかえってくるようにエリントンの許にかえってきた。エリントンはまたそういう人たちを温かく迎えたのだった。

 いつも、どこの国に行っても聴衆を心から愛し、惜しみないプレイをしたエリントンは聴衆からも愛されたが、ジャズ・ミュージシャンからもエリントンほどすべての人々から音楽的にも人間的にも敬愛された人はいなかった。

 

 エリントンの音楽は、目まぐるしく移りかわるジャズ界の動きのなかで、常に時代を一歩先んじていた。ジャズの伝統に従う者にとっても常にジャズの指針となり、有形無形の影響、インスピレーションを与えつづけてきた。

 その影響力はエリントンの死によって終わりを告げるものではない。エリントンの音楽を愛し、エリントンに学んだ人々の心の中に今も、そしてこれからも長く生きつづけることであろう。

 エリントンの音楽家としてのおびただしい業績は、エリントンその人が天から与えられた才能を七十五年の生涯を通じて、努力一途に注いだ蓄積でもあり、ジャズ史上最も大いなる遺産であり、アメリカの芸術的財産、ひいては人類にとっての貴重な資産といってもいい過ぎではあるまい。

 エリントンの功績はその音楽家としての業績にとどまらず、身を以ってアメリカの黒人同胞に与えた勇気と誇りをはじめてとして、芸術大使としての貢献、国境や人種を越えて世界の人々に「美」のよろこびを与えた功績は計り知れないものがある。

 さいわい、エリントンの音楽は、一九二四~五年のごく初期の演奏から晩年のものまでレコードやテープ(ヴィデオ・テープを含めて)に残されており、私たちはこれからも随時鑑賞できるのはまことに有難いことといわなくてはならない。

 前述したビリー・ストレイホーン、ジョニー・ホッジスに次いで、エリントンの悲報に先立ってテナーのポール・ゴンザルヴェスの急逝(十四日)の報や、最古、最長在籍のハリー・カーネイの入院説などエリントン楽団にとって致命的ともいえるニュースが相次いで入り、私たちファンの心に暗い影を投げていたが、巨星エリントンの死によって現実にエリントン時代に終止符が打たれたことはたしかであろう。

 今後、健在なエリントニアンたちによってエリントンのメモリアル・オーケストラが(たとえ不定期であっても)結成されることもあり得るとおもう。しかし今は私たちに限りない音楽の美しさ、それをきくよろこびを与えてくれた故人への深い感謝を捧げたいと思う。

  (182-184頁(「レコード藝術」一九七四年七月号掲載記事より))

 

ほか、野口久光氏のエリントンへの言及を調べてみることにしたい。