Kinda Dukish (かいんだ・でゅ~きっしゅ)

「デューク・エリントンの世界」別館。エリントンに関することしか書いてません。

ジャズ・ミュージシャンは『Monk Plays Duke Ellington』を愛する。

別に毎日、朝から晩までモンクを聞いているわけでも、モンクのレコードをすべて持っているというわけでも、また、モンクの音楽こそが最高の音楽で、絶対無人島に持っていくぞ、というつもりもないけれども、もし、ひとりだけ、本当に好きなジャズ・ミュージシャンの名前を挙げろ、と訊かれたらぼくは、迷いなく、セロニアス・モンクの名を挙げるだろう。モンクとはそういう存在なのだ。モンクの音楽は、おそらく、つまらない、日常的な、人情的な、喜怒哀楽的な、いい加減に勘弁して欲しいこの世界のほとんどのばかばかしいことを、力まずに、肩の力を抜いて、さりげなく無視し、しかもなお世界を愛し続けるという境地に、最も手っ取り早くたどり着かせてくれる音楽だといってもよい(笑)。

 

冒頭の言葉は、管理人が敬愛する加藤総夫氏の名著、『ジャズ最後の日』から。

これは、管理人がこれまでに読んだモンクの音楽についての言葉の中で、もっとも短く、そして、もっとも的確にモンクの音楽を説明したものとして、深く共感できたものです。なんか、読点(「、」のことです)をたくさん使って一見ぎこちなく見える/聞こえるところとか、文体もなんかモンクっぽくないですか。

 

ジャズ最後の日

ジャズ最後の日

 

 

 

 さて、モンクはエリントンと並ぶ「ミュージシャンズ・ミュージシャン」。モンクのことを悪く言うミュージシャンを聞いたことはない。そのモンクがエリントンをカバーしたこの作品、ジャズ・ミュージシャンが愛さないはずがない。

 

 というわけで、ジャズ・ミュージシャンがジャズ名盤を語るこの好企画、期待通りの内容を読むことができる。特に、大西順子氏の話が秀逸です。

 

 

Plays Duke Ellington

Plays Duke Ellington

 

 

ジャズマンがコッソリ愛するJAZZ隠れ名盤100

ジャズマンがコッソリ愛するJAZZ隠れ名盤100

 

 

 

カーラ・ブレイ (Carla Bley, p, 1936-)

 

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 モンクの作品はいろいろ聴いたわ。一番好きなのは『アット・タウン・ホール』(リバーサイド)だけれど、このエリントン集も好みよ。彼のことは偉大なクリエイターだと思っている。でも、わたしにとっては個性的すぎるかな? 二年くらい前かしら。あるとき、モンクの演奏がとても聴きたくなって、本当の意味で聴き込んだことがあったの。そのときに気がついたんだけれど、彼ってドラマーの選びかたが素晴らしいのね。

 モンクの音楽ってリズミックでしょ。彼を生かすも殺すも、そのリズムをどれだけ生き生きとしたものにできるかにかかってくると思うの。だからドラマーやベース奏者は慎重に選ばないとね。モンクはその選びかたに優れていたわ。自分の音楽の本質がどこにあるか、それがよくわかっていたんでしょう。

 モンクから音楽的な影響は受けていない。でもわたしもリズミックな音楽をやっているから、メンバー選びでは参考にさせてもらっている。(89年)

 

セロニアス・モンク・オーケストラ・アット・タウン・ホール+2  (紙ジャケット仕様)

セロニアス・モンク・オーケストラ・アット・タウン・ホール+2 (紙ジャケット仕様)

 

 

 

大西順子(p, 1967-)

 

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 これ、モンクじゃない! わたし好きなんだよね、モンクって。これは彼がエリントンの曲をやってるレコードでしょ。実は今度のアルバムで〈キャラヴァン〉をレコーディングしたんだけれど、あれってこの演奏からヒントを得ているの。ベース・ラインなんか大分参考にさせてもらった。それからケニー・クラークのドラムスがちょっとルンバっぽいんだけれど、ビリー・ヒギンズも似た感じでやってくれたし。これ聴いていると、アー、幸せになれるって感じよね。

 この作品はフェイヴァリット・アルバムといってもいいわ、相当聴いているから。この曲(〈キャラヴァン〉)と〈黒と茶の幻想〉が好きなの。〈黒と茶の幻想〉は、デュークの演奏とはまったく感じが違うでしょ。デュークはジャングル・サウンドでやっているけれど、モンクはもっと別のサウンド――クールな感じでやってる。デュークの演奏も素晴らしいし、それ以上にこのモンクは本当にかっこいい。別の曲をやってるみたい。

 タッチについていうなら、軽いのか重いのかわからない。ヴィデオで観ていたら、普通、高音部の和音は右手がトップで左手を下にしてガチャッてやるんだけれど、彼は腕をクロスさせて左手をトップに持ってきたりするの。あれが謎なんですよね。どうしてああやるんだろうってずっと思っているんだけれど、いまだにわからない(笑)。でもモンクがやっていることには常に理由があるから、あれも彼なりにちゃんとした理由があるんだと思う。でもわからないの。

 モンクで凄いなって思うのは間じゃないかしら。彼は音の数が少ないでしょ。しかも間の取りかたが凄い。あれですべてを語るっていうか、耳をそばだててしまうわね。一番凄いのはソロ・ピアノのときね。普通ならソロだとハーモニーをゴージャスにするんだけれど、彼は逆。シンプルで、しかも音数が少ない。それでいて最高に聴かせてくれるのよ。(93年)

 

コメント中の「今度のアルバム」とは、『クルージン』のこと。これ、大西順子氏がエリントン・ラヴァーであることが現れたセカンドで、「Caravan」だけでなく、「The Shepherd」、「Melancholia」なんてマニアックなエリントン曲をカバー。
特に #2 の The Shepherd なんて、知る人ぞ知るエリントンの名コンボ演奏。当時、そのエリントンへの傾倒ぶりに敬服しました(『In The Uncommon Market』収録)。

 

Cruisin'

Cruisin'

 

 

In the Uncommon Market

In the Uncommon Market

 

 

ちょっと横道にそれるが、大西順子氏がエリントンから受けたであろう影響については、カバーリスト程度のものだが本館にも書いた。

 

 

 

・ジャッキー・テラソン(Jacky Terrasson, p, 1965-)

 

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 セロニアス・モンクのことを最初に注目したのは、ピアニストとしてじゃなく、コンポーザーとしてだった。この作品ではエリントンの曲を取りあげてるでしょ。そこに興味が引かれて、アルバムを買った記憶がある。でも彼って、ひとの曲を演奏しても、自分のオリジナルみたいに聴かせてしまう。そこが凄い。この偉大なる個性には敬服する以外ない。

 モンクからはかなりの影響を受けているし、曲をアレンジする上で彼の個性的なやりかた、たとえばとんでもないところでとんでもない不協和音を使ってみるとかっていうことを、自分の演奏でも試みている。この作品でいうなら、そうだね、〈スイングしなけりゃ意味ないね〉や〈ムード・インディゴ〉がぼくのやっていることに近いかな。タッチはモンクと違うけれど、彼やバド・パウェルのようなビバップ派が好む強力なタッチを自分なりに表現してみたいし、全体的なイメージはモンクに近いかもしれない。

 モンクの場合、いくら不協和音を多用しても、彼が弾くとそうでないように聴こえる。彼が弾く音はひとつも間違っていない。すべてが正しいところで正しい音が使われている。でも、それはモンクにしかできないことだ。ハーモニーだとかリズムだとかが絡み合って、必然的にああいう音が用いられているんだろう。いいかたを変えれば、この場所にはこの音しかないっていうほど吟味されているはずだ。奇を衒って、思いつきで弾いてる音じゃない。(96年)

 

・ドン・フリードマン(Don Friedman, p. 1935 - 2016)

 

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 モンクほどユニークなピアニストはいなかった。ヴォイシングにしてもタッチにしても、前代未聞のスタイルだったからね。彼がピアノを弾いているときの指の使いかたを見たことがあるかい? まるで叩いているような感じだものね。パーカッシヴなことこの上ない。あのタッチからユニークなサウンドが生まれてくるんだ。

 それと、作曲家としても偉大だった。リズミックな曲では必ずなにかひと捻りしていたし、バラードは飛び切り美しい。この両面性が魅力だった。本当の意味で偉大な天才だ。

 モンクの場合、どんなに短い曲でも、あるいは演奏であっても、必ず興味深いものがそこに表現されていた。好きな曲は〈ラウンド・アバウト・ミッドナイト〉だが、この作品のようにエリントンのメロディを弾くときの彼にも格別な味わいがある。そもそもモンクは彼の音楽に影響を受けているし、タッチにも通じるものがあった。それだけに、エリントンの曲も自然に演奏されている。まるでモンクが書いた曲のようだ。

 〈ソリチュード〉はエリントンが書いたもっとも美しいメロディのひとつで、それをモンクが弾くと、彼の〈ルビー・マイ・ディア〉か〈ラウンド・アバウト・ミッドナイト〉みたいに聴こえる。マイナー調の音使いにふたりは共通点があった。マイナーなのにメジャーのように弾くし、メジャーで書かれた曲ではマイナー調に弾く。オリジナルの曲にもそういう要素が反映されている。

 いま思いついたんだが、この作品の逆で、エリントンにもモンクの作品集を作ってもらいたかった。そうしたらもっとふたりの共通点がはっきりしたんじゃないかな? ないものねだりの話だけれど。(96年)

 

これですよ、これ! この企画に期待してたのはこういう内容だ。正直、『The Popular』のコメントはみな当り障りのないことしか話してなかったけど( 過去記事参照 )、この作品(とモンクとエリントン)については、みんな嬉々として喋ってるではないか。特に大西順子氏のコメントなんか最高です。「タッチについていうなら、軽いのか重いのかわからない。」なんて率直な言葉もあって、確かにその通りですよね、なんて、ピアニストでもない管理人が偉そうなこと言えるわけないけど。

それにしても、モンクのこととなると、どうしてみんなこんなに嬉しそうに話すのだろう。その顔は笑顔しか想像できなかったので、上のようになりました。

 

以下は小川隆夫氏のコメント。

(冒頭)

 特異なプレイと音楽性で独特のポジションを獲得しつつあったセロニアス・モンクが、そのスタイルを完成させる上で強く影響を受けたデューク・エリントンの曲を取りあげる。モンクとエリントンの音楽には、タッチやメロディ・ライン、和音の使いかたなど多くの点で共通項があった。それでいて、ここではモンクにしかできない演奏が記録されている。この個性とオリジナリティを聴けば、彼が乗りに乗ってピアノを弾いていたことがわかる。

(まとめ)

 カーラ・ブレイのコメントは短いが示唆に富んでいる。リズム・セクションの人選。そこがモンクス・ミュージックの肝だという。いわれてみればそのとおりだが、普段はそんなことなど考えずに聴いていた。やはり実際に演奏しているひとの視点は違う。だからインタヴューは面白い。大西順子が自分のアルバムについて話しているが、それは「クルージン」(サムシングエルス)のことだ。彼女が好きそうだと考えてこのアルバムは選んだが、どんぴしゃだった。ヴィデオで観たタッチについての話も興味深い。その大西とジャッキー・テラソンが似たようなことをいっていた。モンクが弾く音にはすべて理由がある。つまり一切の無駄がないということだ。モンクが偉大なピアニストであることは誰もが知っている。いろいろな言葉でその理由は語られているが、もっとも端的にいい表しているのがこの言葉かもしれない。『エリントン・プレイズ・モンク』を作ったらよかったのにというドン・フリードマンの話も、実現することは不可能だけれどいいアイディアだと思った。

 

ドン・フリードマン、そして小川隆夫さん、エリントンはちょこっとだけモンクの真似の演奏残してますよ。「エリントン・プレイズ・モンク」とまではいきませんがね。「Monk's Dream」をカバーしてたり、「あえてモンク的な演奏をしてみた」的な、「Kinda Monkish」な録音も残してますよ。これについては、すでに本館で書いてます。

 

 

また、このカバー集のプロデューサーであるオリン・キープニュースは、後年、この作品録音時のエピソードなど、モンクに関するエッセイを書いてます。そのエッセイは、村上春樹編集のこの本にされています。

ハルキさん、いい仕事するなあ。

 

セロニアス・モンクのいた風景

セロニアス・モンクのいた風景

 

 

この本に関する当別館のエントリはこれ。ややこしくなってきました。

 

 

とにかく、モンクとエリントンの関係はまだまだ深い闇の中。

影響関係、類似性、相違点……水平派/垂直派というような、単純な分類じゃ収まりませんよ。まさに「少年易老學難成」。エリントンの側からからはわたしが頑張りますから、誰か、モンクの側から発信してくれないかなあ、なんて思ってます。

それこそ、大西順子さん、両者についてカバーアルバムとかどうでしょう。LP限定で、表面はエリントン、裏面はモンクとか。