Kinda Dukish (かいんだ・でゅ~きっしゅ)

「デューク・エリントンの世界」別館。エリントンに関することしか書いてません。

『デューク・エリントン&ジョン・コルトレーン』の村井康司評

リンク元「デュークエリントンの世界」「05 交流・影響関係」「ジョン・コルトレーン」

 

村井康司氏による『デューク・エリントンジョン・コルトレーン』評を引いておきましょう。

 

読んでから聴け!ジャズ100名盤 (朝日新書 85)

読んでから聴け!ジャズ100名盤 (朝日新書 85)

 

 

デューク・エリントン&ジョン・コルトレーン

デューク・エリントン&ジョン・コルトレーン

 

 

誠実で真摯なコルトレーンを優しく包む「慈父」エリントン

 デューク・エリントンの「大きさ」というのは、われら凡人には計り知れないところがある。生涯に千を超える曲を作り、自分のビッグ・バンドのために編曲を毎晩のように書き直し、フリー・ジャズまでを包含してしまうような過激な響きを平然と奏で、それでもバンドはごきげんにスウィングして、広い層の聴衆を楽しませた男、エリントン。彼はジャズという音楽の懐の深さを象徴する人物であり、ここでもコルトレーンをゆったりと包み込んで、余裕たっぷりに音楽を楽しんでいる。尊敬するエリントンを前に、コルトレーンはややおずおずと、しかし能うかぎり誠実かつ真摯にサックスを吹く。《イン・ア・センチメンタル・ムード》はエリントン・バンドではアルト・サックスのジョニー・ホッジスの十八番だが、つややかでエロティックなホッジスとは対照的に、コルトレーンのテナーは音色も節回しもストレートで簡素だ。その朴訥な演奏を慈しむように、「ちゃららららんらん」というリフレインを繰り返すエリントンのピアノは、まさに「慈父の愛」そのもの。続く《テイク・ザ・コルトレーン》は、この時期のコルトレーンが得意としたタイプの、モード的なリフをもつブルース。しかし驚くことに、この曲はエリントンが作者。エリントンの器の大きさに改めて畏怖心を抱いてしまう。
 リズム隊はエリントン・バンドとコルトレーン・カルテットから4人が参加しているが、特筆すべきはエルヴィン・ジョーンズのプレイだ。細かいスネア・ドラムの連打、マレットによるタムタム打ち、8分の6拍子と4拍子が混在したポリリズムなどといった得意技を、エルヴィンはエリントンのピアノを邪魔しないように細心の注意を払って繰り出している。それがじつにエリントンの演奏にフィットしていて、エルヴィンを迎えたエリントンのピアノ・トリオ作なんて企画もありだったのに、などと夢想してしまうのだ。 (76-77頁)

 「お互い、節度を守った演奏に終わった」というオーソドックスな評価はまったくそのとおりだと思います。

 

 エルヴィンとエリントンの共演の可能性については、以前 日めくりエリントン でもツイートしたとおり、一時的にエルヴィンはエリントン・オケに参加していたことがあります。残念がら短期間、というよりも一発の企画もので終わってしまったため、2人にとって音楽的な発展はなかったようです。

 

エリントンとポリリズムの関係を考える時、管理人はいつもこのエルヴィンとの共演の可能性を思い出します。メロディとハーモニーに関しては20世紀を代表するほどの作品を残したエリントンですが、リズムに関しては興味がなかったように思われるのです。

 

エリントン自身は民族音楽、特に「アフロ」について繰り返し言及し、『Liberian Suite』、『A Drum Is A Woman』、『TOGO BRAVA』など、コンセプト、タイトル面ではアフリカについての言及がありますが、音楽の内容面ではそれほどアフリカに接近していたとは思えません。つまり、変拍子ポリリズムについては極めて凡庸なのです。それもまたエリントン・ミュージックの特徴といえるでしょう(もうひとつの特徴はコード進行の凡庸さです。ハーモニーの特異性に比べて、エリントン・ナンバーのコード進行は実にオーソドックス。だからこそ変態的なハーモニーが際立つとも言えます。さらに、この、単調なコード進行に複雑な和音を載せる、というアイデアはマイルスによる「モード」の採用に影響を与えただろうし、さらにいえば上モノをどんどん変化させて曲を作っていくクラブ・ミュージックの手法にもつながるはずでして……って、これは括弧の中で書く内容ではありませんね、稿を改めましょう)。

 

アフロ・ボッサ
 

 アルバム名の「アフロ・ボッサ」はもちろんボサノバを意識してつけたものでしょうから、この作品なんかはさしずめ「アフリカ的傾向」くらいの意味になるが、どちらかというとアフリカより南米です。それも日本のムード歌謡が連想するような。

おそらく、「アフロ・アメリカンが演奏するボサノバ」、「アフリカンなボサノバ」程度の意味で付けられたタイトルなんでしょうね。変なパーカッションが色々使われてます。

 エリントンにはこんな作品もあることをお忘れなく。

A Drum Is a Woman

A Drum Is a Woman

 

「A Drum Is A Woman」…!

素晴らしいのはタイトルとジャケットだけではありません。が、タイトルから連想されるようなアフリカ臭は薄め。形式はナレーション付音楽劇とでもいうべきもので、この作品全体で「マダム・ザジ」の物語が語られます(ちなみに、ナレーションはエリントンと息子のマーサー)。

 

『極東組曲(Far East Suite)』でも「DEPK」など、変拍子を意識した曲もあるのですが、総じて、エリントンがポリリズムに積極的だったとは考えられません。

極東組曲

極東組曲

 

 つまるところ、エリントンはポリリズムにあまり関心がなかったのだと思います。

エリントンが得意とする組曲形式を生み出した西洋音楽は、菊地成孔的に言うならば「積分的に」変拍子を作る傾向があり、変拍子を「微分的に」作るのは、エリントンにとってはあまりエレガントな感覚ではなかったのかもしれません。

 

だからこそ、村井氏が指摘するように、ポリリズムが服を着て歩いているようなエルヴィンによる刺激は大きな可能性を秘めていたのではないか、と思うのです。

もっとも、単に「相性、合いませんでした」で終わる可能性もあります。というかこっちの可能性の方が大きいですかね。。。

 

Springtime in Africa

Springtime in Africa

 
Africa Jazz

Africa Jazz